ドラマ・卒業後、お付き合い前。



趣味の問題 〜黒慎編〜 さらにその後



「引きこもり?沢田が?」


久々に聞いたその男の名前に、山口久美子は思わず叫んでいた。しかも内容が内容だ。聞き捨てならない。生徒の一大事ではないか。久美子は引き止める声も聞かず、飛び出していた。救いの手を差し伸べなければ。一刻も早く行ってやらねばならない。


「あ、ヤンクミ?ちょっと待てって!」


「おい、あいつなんか誤解してないか、あの様子だと」


「あーあ、行っちゃったよ。全く、なんでああ早合点なんだか」


後ろでかわされている元生徒達の会話も全く気が付かなかった。


久美子はその足でスーパーへ向かい、身体に良さそうな食料をしこたま買い込んで、その生徒の住居へと向かった。アパートの部屋まで来ると、どんどんどんと盛大に扉を叩く。


と、そこまで来てやっと気が付いた。


沢田は、久美子の白金時代の生徒であった沢田慎は、卒業後、すべての大学を蹴って単身アフリカへ渡ったはずだ。今、扉を叩いているこの部屋も、高校時代の沢田が住んではいたが、今は住んでいるかどうかも定かではないのだ。久美子は大量の食料品の入った袋を抱えて途方に暮れた。


と、扉が開かれて中から男が顔を出した。


「・・・誰?」


「沢田!」


記憶にあるものと幾分面影は変わっていたものの、顔を出したのは沢田慎その人であった。


「ヤンクミ・・・?」


「ええと・・・あの、その・・・来ちゃった!」


扉を開けた沢田慎は、取り敢えずと言った感じで久美子を部屋へと導いた。室内は久美子が記憶していた学生時代のものとは少し印象が変わっていて、なんと言うか生活感がある気がする。


きょろきょろしていると、慎が久美子の手からスーパーの袋を取った。


「これ、俺に?」


「あ、ああ。その、身体に悪いもんばっかり食べてるんじゃないかなーって。てへっ」


慎が袋を覗いてみると、鍋の材料が一通り入っているから、高校時代、よく世話になった久美子の家の食卓を思い出して頬が緩む。


それにしても、あまりに唐突な邂逅だった。久美子とは一体何年ぶりにあうのだろう。久しぶりにも拘らず、記憶にあるのと全く変わらない担任の顔に、慎は眩しそうに目を細めた。


「サンキュ。その辺に座れよ。コーヒーしかないけどいいか?」


「あ・・・うん。頂きます・・・」


久美子が以前、一度だけ来た時には聞くことのなかった大人びた対応にどぎまぎしつつ、以前と同じ位置にあるローテーブルの前のクッションにそっと腰を下ろす。


程なくして香り高いコーヒーの入ったカップがふたつ運ばれてきて、これも以前と同じ位置に腰掛けた慎と向かい合わせにコーヒーをすする。


しばらく、ふたりの間にはコーヒーの香りだけが漂っていた。言葉もなく、数年振りのふたりきりの空間なのに、奇妙に安らいだ雰囲気だった。気を遣わなくてもいい、そう言った相手の存在を、久美子が知ったのは家族以外では初めてだったかも知れない。


「今日はどうしたんだ?」


半分ほどコーヒーが空いたところで、慎が聞いた。


「ええっと・・・お前が元気でやってるかなあって・・・」


「この通り、元気でやってる」


「そっか・・・」


またしばらくふたりでコーヒーをすする。


「そう言えばさ・・・お前に聞きたいこと、あったんだ」


久美子がぽつんと言った。


「ん?」


「前さ、お前・・・しゅ、趣味がどうこう、言ってただろ」


「ああ」


「あれさ、どう言う・・・?」


久美子の言葉に慎は飲みかけのカップを置く。


「そのまんま」


「え?」


「俺の趣味は山口久美子だったよ」


はっきりと言われて頭に血が上るが、ふと違和感に気付いて慎の顔を見る。今、慎はだった、と過去形で言った。


「・・・過去形、なんだ・・・」


じわりと目の前が滲む。

これはなんだ。

あたしは生徒に何を思って。

何を考えて。

なぜ失望なんか。


涙がこぼれないように、必死で抑えた。

趣味はお前だ、ずっと変わらないと言われたときから、胸のどこかで考え続けていた。自分を助けようとぼろぼろに傷付く慎の姿、落ち込んだとき失敗したときいつも側に居て励ましてくれた慎の姿、自分を取り巻く理不尽から守ろうと共に苦しんでくれた慎の姿、誰もが忌避する家に楽しそうにとけ込んでいる慎の姿・・・


毎日毎日、暇があれば考えて、思い描いて。こう言うのを趣味って言うんじゃないのか。自分はこんなにも慎のことを考えているのに、その切っ掛けは慎の言葉だったのに。変わりやすい若者の心は、もう既に別のものに興味を移してしまっていたのか。


「山口久美子は、もう俺の趣味じゃない」


言い捨ててふいっと横を向いてしまった慎は、やがて涙の滲んだ久美子の姿に気が付いたのか、テーブルを回ってきて久美子の前に座った。そして、久美子の顎に手をかけて自分の方へ向けさせると、その瞳をしっかりと覗き込んで言った。


「俺は、山口久美子を趣味じゃなくて本職にしたいんだ」


「え?」


思いもよらない言葉に、久美子は息を呑んだ。


「趣味じゃない。趣味なんて薄っぺらい言葉じゃ足りないんだ。情けねぇけど、その事にアフリカ行くまで気付けなかった。やっとわかったんだ。俺は、これから一生涯賭けてお前とかかわり合いたい。お前の家も、俺の家も、全部俺が引き受ける。お前の背負っている重荷を一緒に背負うために、俺は今勉強してるんだ。今すぐにってわけにはいかないけど、絶対にお前のところまで行ってみせる。だから、ほんの少しのときでいい。受け入れてくれなくてもいいんだ。ただ、俺を待っててくれ。俺の本職が、お前になるまで」


「沢田・・・」


慎は久美子の両手をぎゅっと自分の両手で握りしめた。


「俺、アフリカから帰ったあと大学に入りなおしたんだ。今は資格を取るために勉強している」


「だって、内山がお前のこと引きこもりって」


「今は夏休みだろ。この夏はバイト入れずに勉強に専念するって話はしたけど」


「なんだ、そっか・・・良かった・・・お前、やりたいこと・・・見つけたんだな・・・」


その言葉が担任としてのものであることに気が付いて、慎はもう一度久美子の顔を覗き込む。


「俺のやりたいこと、お前が受け入れてくれたと思っていいんだよな・・・?」


慎の言葉の意味を計り兼ねていた久美子だったが、しばらく経ってから理解したとみえて、一気に真っ赤になった。


「ばっ、ばか、なに言って・・・!」


乱暴な言葉とは裏腹に、久美子が赤面しているのを確認して、慎は安心したように久美子の両手を一層強く握りしめて、嬉しそうに笑ったのだった。



(了)