※ドラマ・卒業後、おつきあい前。「秋霖」の続編。
驟雨
降りしきる雨の中を、俺は泣きながら歩き続けた。
激しい雨音が耐えきれずに漏らす嗚咽を隠してくれた。
人通りはあるが、皆、傘を深くさして足元だけを見て歩いている。
誰も俺を見るものはいなかった。
結局、一時間くらいはそうして闇雲に歩き回っていたと思う。
激しい降りなのに雨脚は衰える事もなく、俺は下着までびっしょりと濡れていた。
涙に濡れて熱かった頬が冷えきる頃、俺はようやく少しだけ冷静になって家へ足を向けた。他人の気持ちが思い通りにならないからってこんな風になるなんて、我ながら子供じみている。
雨雲の所為で辺りは夕暮れ時の様に薄暗い。
マンションまで帰り着いて、俺は入口のポーチに人影があるのに気が付いた。
壁にもたれ、何かを考え込むように腕を組んで俯いているその人は、雨に濡れるのも構わずに静かに佇んでいた。俺に気が付いてすっと顔を上げる。
「ヤンクミ・・・」
「遅かったな。」
もしかして、俺の事を追いかけてきてくれたのか?
この雨の中を、傘もささずに?
そんなに濡れるまで、俺を待っててくれた、の・・・?
さっきまでの沈んだ気持ちに光が射すようで、俺は思わず弾んだ足取りになってヤンクミに近寄っていく。手を挙げて笑顔を浮かべようとした途端、鋭い眼光に射抜かれて俺は立ち止まってしまった。
「ヤン、ク・・ミ・・?」
ヤンクミはトレードマークのおさげを解いていて、眼鏡も外している。
静かにこちらを見据える眼差しは鋭くて、思わず萎縮してしまう程、迫力があった。
この目を知っている。
彼女が戦いを始める合図だ。
いつも後ろから、脇から見ていたから、正面で見据えられるのは初めてだった。
背筋が凍るほど恐ろしいのに、目が離せないほど鮮烈で美しい。
「沢田。」
ヤンクミは俺の目をしっかりと見つめて呼びかける。
「お前のさっきの言葉・・・」
俺はごくりと喉を鳴らす。
何を言うつもりだろう。
「お前に、あたしが抱けるのか?」
「な、何、いきなり・・・」
「聞いてんだ。男ならはっきり答えやがれ!」
「そりゃ、もちろん、」
突然の事に驚いて俺はしどろもどろだ。
俺だって男だし、人並みの欲求はある。そりゃ経験がある訳じゃないから上手ではないだろうが、好きなら当たり前のことだろう?だから。
「お前、さっきあたしの事、ちっともわかってないって言ってたな。」
「ああ、それはだって、」
「あたしに言わせりゃ、わかってないのはお前の方なんだよっ。」
「何言って・・・」
「お前はちっともわかってない。このあたしを抱くってことの意味が。」
「・・・・」
どう言う意味だろう?結婚とか責任とるとか、そう言うことを言ってるんだろうか。
でも、そう言うのってもっと後になってふたりで考えるもんじゃねぇの?
気持ちの昂りのままに、恋人同士、抱き合うのがなぜそんなに大変な事なのか。
俺にはわからなかった。
わからない、と言う俺に、ヤンクミは話はじめた。
ヤンクミの家の稼業の事、俺のオヤジの職業の事。
そんな事、はじめから言われなくてもわかってる。
知っててお前に恋したんだ。
「だから、そう言うのわかってるから。でも、そんなことはいくらでもやりようがある事だろう?」
「バカやろう!軽々しく言うんじゃねぇよ!」
「軽くなんかない!俺は本当に、」
言いかけた俺を、ヤンクミの目が射抜く。
「お前に、大江戸が背負えるのか?」
「!」
静かな声なのに、その迫力に俺は圧倒されていた。
いつもの、無邪気で慌て者の高校教師の面影はどこにもない。裏の世界で命のやり取りをする、そして常に勝ち続けなければならない人間の姿だった。
「お前、わかってるのか。
このあたしはなぁ。黒田龍一郎を継ぐ、ただひとりの人間なんだ。大江戸の命運を握ってるんだよ。望むと望まざるとに関わらず、な。あたしがいやだと言っても、お祖父ちゃんがいいと言っても、それが通用するような世界じゃない。
大勢のはみ出しもん達の面倒を見て、普通に生きていけないでも一生懸命な、そんな奴らの人生握ってるんだよ。同時に、そいつらを束ねておくことで善良な人たちを守ってもいるんだ。
甘っちょろい覚悟でやってる事じゃねぇ。
代紋を背負うってのは、そう言う事だ。」
「・・・・」
俺は一言も言い返せなかった。
そんな事、考えた事もなかった。
家を守るため、組織を守るため、自分を犠牲にするなんて時代錯誤でバカらしいと思っていた。自由に結婚も出来ない、自分の意志も持てない、そんな事までして守らなきゃならないものなんて、無くてもいい、と。
それが、誰かの幸せを壊すことになるなんて、想像すらしていなかった。
自分の甘さを思い知らされて、俺は衝撃を受けていた。
俺の乗り越えなければいけないものは、想像よりもずっと険しい。
若さや愛なんてふわふわした言葉に縋ってるだけじゃ、道は開けないのだ。
「あたしは、そいつの人生を背負う覚悟が出来たとき、そいつに抱かれるつもりでいる。 だから。」
「だから・・・?」
一旦、ヤンクミは言葉を切る。そして大きく息を吸って、はっきりと言った。
「あたしの人生を背負う覚悟の無い奴に、この身を任せる気はない。」
ヤンクミは俺の顔をまっすぐ見つめている。
誘うように、試すように。
「お前に、大江戸の孫娘を抱くだけの度胸、あるか?」
挑発的なまでに妖艶な笑みを浮かべ、腕を差し出す。
なのにその眼差しには慈愛に満ちて、なんの衒いも駆け引きも浮かんではいない。
そして俺は悟ったのだ。
今までの無邪気な態度は、俺を気遣っての事だった。
俺の誘いに乗ろうとしなかったのは、俺の逃げ道を用意するためだ。
ヤンクミはとっくに覚悟済みだったんだ。
選ぶのは、俺・・・
雨にふやけた右手をじっと見る。
その手をぎゅっと握りしめて気合いを入れると、俺は差し出された手を握るべく
一歩踏み出した。
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秋霖があまりにも暗かったので救済編。
実は男前な久美子さんに守られていた慎ちゃん、男を上げるべく踏み出します。
自分が逃げてしまう小心者なので、困難を克服して前に進む主人公に憧れます。
前へ、前へ、前へ。
2010.10.16
双極子拝