原作・卒業後、おつきあい中。


もう駄目だ。

居たたまれなかった。


これ以上、ここには居られない。

お前に合わせる顔がない。



秋霖



その日、俺は今にも雨が落ちてきそうな曇り空の下を急いでいた。


鞄の中にはやっと手に入れた限定もののビデオがある。と言っても、イヤらしいものじゃない。山口が最近入れ込んでいる高倉文太のお宝ビデオだ。なんでも一度撮ったものの、そのあまりにも背徳的な内容から配給会社の会長の鶴の一声で差し替えになったものだそうで、数十年の間ずっと御蔵入だったそれが今回限定で関係者のみに配付になったのだ。


あちこちに手を回して(腹の立つ事に上杉の手まで借りた。ひとつ貸しにしてやるよと言った時の含み笑いを考えるとあとが恐かったが)、やっと今日渡せるのだ。


山口の驚く顔を思い浮かべながら俺は黒田の門を潜った。


「ちは。」


「あれー、慎さん。珍しいね、こんな時間に。お嬢は座敷に居るから上がってくれ。」


てつさんと顔を突き合わせて何やら取り込み中らしいミノルさんに言われて、俺は勝手知ったる黒田の事務所を通り抜け、内玄関からのれんの向こうの磨き込まれた廊下に上がった。


暗い廊下に一筋光が射していて、そちらに人の気配がするから歩いていく。誰が居るかもわからないから辺りを憚るようにそっと移動して、あと少しと言う所まで進んだ所で、座敷の中から話声が聞こえてきた。


京さんと山口の声だ。


ほっと気を抜いて襖を開けようと伸ばした手が、宙で止まった。


「・・・だろ、慎の字も。」


京さんが俺のことを話している。山口がなんと答えるか知りたくて、そのままじっと言葉を待った。


「まあねぇ・・・」


山口はふふっと笑うと言葉を切った。その声がなぜかとてもさみしそうで俺は胸を突かれた。俺の話をしているのに、なぜそんなに切ない声で笑うんだ・・・?


「お嬢、無理しなくてもいいんですぜ。」


「無理なんかしてないよ。・・・ふふっ、嘘・・・京さんには隠し事は出来ないねぇ・・・」


「お嬢、深入りする前に引いた方が身のためですぜ。はなっから負けるとわかってる勝負しかけるなんざ、お嬢らしくもねぇ。」


「なーんか、ほだされちゃってねぇ。ああも慕われると、ま、可愛くってね。」


「・・・・」


「それに、あいつはあたしのために弁護士になるとか言ってるだろう?今、手ぇ離しちまったら弁護士になるのやめちまうと思うんだよ。弁護士なんていい稼業じゃないか。あいつのために一番いいと思うんだ。・・・だからさ、あいつが卒業するまではこのままでいて、それから・・・」


「お嬢・・・お嬢が望むんなら、俺ゃ・・・」


「京さん。言っちゃあなんねぇよ、その先は。」


「ですけどさぁ。何とか説得して手打ちって事も出来るんじゃないですかぃ?」


「・・・だめだよ。」


「だけど・・・」


「鶏頭会の協力なしじゃ、黒田一家は立ち行かないだろ。そりゃ、おじいさんが元気なうちは問題ないだろうけど、その後の事を考えたら出来るだけ波風は立てたくない。」


「ぐっ・・・」


「警察官僚の息子を組の周りでうろつかせる訳には行かない。わかるね。」


「・・・へぇ。」


「莫迦だね、京さん。あんたが泣く事ないじゃないか。」


「でも、お嬢は組のために・・・」


「これはね、京さん。沢田を守るためでもあるんだよ。」


「へ・・・?」


「あたしもね、怖いんだよ。あたしが守ってやるって思ったこともあったけどさ・・・いつか、あたしの手の中であたしの所為で沢田が逝っちまったりしたら・・・そんな事考えると怖くて仕方ないんだ・・・あいつはいつもあたしのために一生懸命だから。どうやっても止められないならいっそ、側に置かない方が安全だ、なんて・・・」


「お嬢・・・っ!」


「はは・・・沢田が不幸になる所を見たくないだけなんだ。」


臆病だよねあたしも、なんて笑う山口の声を聞きながら、俺は身体の震えを止められなかった。俺はなんてバカな野郎なんだ。


極道弁護士になって山口と山口の大事な人を守るんだ、なんて言って。

山口が受け入れてくれた事に有頂天になって。

この頃では山口と対等に付き合えるようになったなーなんて、思ってた。


なんて自惚れた野郎なんだ。


そんな俺を山口はどんな思いで見てたんだろう。

どんな気持ちで俺を受け入れてくれたんだろう。

ついこの間、俺の事を肉体的にも受け入れてくれて。

あのとき、山口はどれほどの決意で俺の腕に抱かれたのか。


何も気付かなかった自分が滑稽で、情けなくて。

涙が出た。


ガタン・・・


思わず立てた音に、座敷の中のふたりが反応した。


「誰だ!」


京さんの怒声を聞きながら俺は慌てて逃げ出した。


だって、どんな顔をすればいい。

どのツラ下げて山口を見ればいいんだ。


居たたまれなくなった俺は、ただ逃げ出すしか術がなかったんだ。


「沢田!」


山口の悲痛な叫びを後ろに聞きながら、俺は黒田の屋敷を飛び出した。

いつの間にか降り出した土砂降りの雨の中を、俺はびしょ濡れになりながら駈け続けた。


こんな俺なんか雨に流されてなくなってしまえばいい。

冷たい十月の雨が、俺の涙とともに流れていく。

雨は霈然と降り続いていた。



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すみません。

今日は冷たい雨が降っていて気分が下がってしまいました。

なので、何の落ちもなくただただ暗いだけ。


たまにはこんなのも、いいかなーと。


2010.10.8

双極子拝


イラスト:尚様