物心ついた時には、母とふたりきりだった。


夕日の眩しい小さな部屋で、寄り添って暮らしていた。母の作る卵焼きが大好きで、お弁当のある日にだけ買ってもらえるウィンナーを、タコの形にしてくれるのが何より嬉しかった。玩具など碌になかったが、母がいてくれるだけで良かったのだ。


一間しかない古びたアパートの部屋の中、小さい良夫は精一杯母を助けて暮らしていた。自分が母を守るのだと、いつも一生懸命だった。


その平穏な生活が一変したのは、たしか小学校へ上がる年だったと思う。


「出て行ってください!もうそちらとは関係がないはずです!」


夜半、滅多に聞かない母の叫び声で目を覚ました良夫は、玄関の暖簾の向こうに、母の後ろ姿と、対峙する数人の男の脚を見た。あたりは真っ暗で、廊下を照らすぼんやりとした明かりに透かして見えた人影は、なぜか良夫を怖がらせた。窓の外の闇が脹らんで息苦しいようだ。


布団にもぐり込んでがたがた震えていた良夫は、やがて戻ってきた母にしっかりと抱きしめられていつしか寝入っていた。そのときの母の顔は確かに濡れていたと思うのだが、改めて聞いた事はない。


とにかく、その件があってから間を置かず、母は良夫の手を引いて逃げるように町を出た。家財道具の一切は、小さな鞄ふたつに入ってしまったと、後に母は笑って回想した。


それからしばらくの間のことは、実は良夫はあまり覚えていない。


長い間電車に乗って、知らないどこかへ着くと、自分を側に置いて母が働いたことだけは、切れ切れに覚えている。どこかの旅館なのだろうか、大きな厨房で大勢の人に交じって働く母の後ろ姿を覚えている。場所は何度か変わった気がする。大きな犬の遊び相手になったり、見習いのお兄さんと相撲を取ったりと、良くしてくれるところもあったが、大人並みに働かせられるところも多かった。洗い物であかぎれだらけになった自分の手を、やはりあかぎれだらけの母の手がそっと包んではあっと温かい息をかけてくれたことを覚えている。


どんな時にも、明るく自分を支えてくれた母。細い指はいつも荒れていて、化粧っけのない顔はやつれていたけれど、良夫に見せる顔はいつも笑顔だった。


脳裏に浮かぶその笑顔が、ふと気付くと由梨子の顔にすり替わっている。面立ちにはどこにも似たところはないと言うのに、不思議な感覚だった。古びた自宅の台所で楽しそうに夕飯の準備をする母の後ろ姿が、食堂で働く由梨子の面影と重なる。


由梨子の柔らかな頬、どこか不安げに揺れる大きな瞳、艶やかな黒髪、そして小さな手。次から次へと思い出していくに連れ、母との共通点が驚くほどたくさん見つかっていく。


どうぞ、お茶です。


そう言って食後の緑茶を差し出してくれる右手に、触れるか触れないくらいに左手の指を添えてくれる癖も、そう、似ていた。湯のみを置いた後、無意識に首を少し傾けて微笑む癖も。


「母さん・・・」


今の小さな家に落ち着くまで、苦労し続けた母。良夫の高校卒業を何より喜んでくれた母・・・市役所勤めが決まった時には、赤飯を炊いて祝ってくれた。


穏やかに暮らせたのは最後のほんの数年だったが、これで安心して死ねると何度も何度もそう言っていた。


病床で見た母の死に顔は、穏やかで安らかなものだった。


ひとり手酌で空けていた盃に映る明かりをぼんやりと眺めていたら、ふと影がさした。見上げると、この間のチンピラだった。バツが悪そうに身を竦めて、ぺこりと頭を下げる。


「自分、探してるって聞いたもんで」


「ああ」


この一週間、良夫はこの男と再会するためだけに歓楽街へ通い詰めていたのだ。おおっぴらに探したりはしない。ただそれとなく匂わせていただけだ。そしてゆっくり網にかかるのを待つ。相手が出てくるのを辛抱強く待つのだ。


こうしたことは急いてはいけない。

特に、自分が堅気の人間であり続けたい場合は。


「つなぎをつけて貰いたい」


男の顔から眼を逸らしたまま、低い声で良夫が言った。

男はしばらく無言で良夫の後頭部を眺めていたが、やがてぼそっと言った。


「明後日の夜。そうですね・・・時間は八時ごろ。ここに電話をかけてくれればつなぎがつくようにしときます」


「すまないな」


良夫は男にそっと札を握らせると、先に帰るよう促した。