それから一週間後。
良夫は飲屋街にいた。ここのところ連日飲み歩いている。普段、全くと言っていいほど足を運ばない歓楽街に、なぜか通い詰めているのだ。
切っ掛けは、以前からまれたチンピラと再び出会った事である。
出張から返った日、つまり由梨子に泣かれた日。
流石に落ち込んでいた良夫は、賑やかな処で夕食がてら飲む事にした。
焼き魚を少しずつ千切りながら、良夫はゆっくりと杯を重ねる。こう見えて酒には強いのだ。もうかなりの量を飲んでいるはずなのに、様子はほとんど変わらなかった。
黙然と飲んでいる良夫の前にふと影がさした。見上げるとこの間のチンピラだった。
さっと良夫の身体に殺気がみなぎったのを見て、慌てて言った。
「待ってくれ。オレはインネン付けにきたとかそんなんじゃねぇんだ。ちっと、あっちにいる御人にお前ぇを呼んできてくれって頼まれただけなんだ。本当だ。だからそのおっかない顔をやめてくれよ」
ある御人とやらは、このチンピラにとってよほど恐ろしい相手なのだろう。 拝むような態度に害がないと踏んで良夫は了承した。チンピラは明らかにほっとしたように良夫を店の裏の路地に導いた。薄暗がりの向こうに、スモークガラスの厳つい車が一台停まっている。
「ご苦労。もう行っていいぜ」
後部座席の影がそう言うと、良夫を伴って車に近寄ったチンピラは一礼して走り去っていった。
「ま、立ち話もなんなんで。俺の車にどうぞ」
明らかに筋者と判る男に逆らいもせず、言われるままに良夫は男の隣に滑り込んだ。
男は運転手を外に出し、しばらく離れていろと命じた。
ふたりきりの車の中が沈黙に満ちる。
「・・・お元気そうですな。」
良夫は答えない。
「実は親父っさんが亡くなりましてねぇ。今、組の中が少々揉めているんですわ」
「・・・で?」
「念のためもう一度確かめて来いと、兄貴がうるさくてねぇ。あっしゃ何度も良夫さんにゃその気はねぇと申し上げたんですがね」
「ああ」
「で、その事を兄貴に直接言って頂けないすかね?どうもあっしじゃあ安心できないそうで。」
「・・・・」
良夫は無言で首を振る。
頑なに引き結ばれた唇を見て、男はため息を吐いた。そのまま考え込んでいる。
男にとってはあまりいい状況ではないのは良夫にもよく分かっている。しかし、関わりになるのは絶対にいやだった。亡き母のためにもこのまま堅気の生活を続けたい、ただそれだけを目的に静かに暮らしているのだ。
「しょうがないっすねぇ。」
諦めたように男は言った。このまま帰ったら指一本くらいでは済まない事は判っているのに、男らしく仁義を通したのだ。良夫はこの男に恩がある。大きな腹を抱えて路頭に迷いそうだった母を助けてくれたのだ。なのにそれを着せようと言う気は全くないらしい。
「・・・直接会わなくていいか?」
「え、そ、それじゃあ・・・」
「一筆書こう」
「ありがてぇ、兄貴が喜びますぜ。恩に着ます」
血判を押されたそれを伏し拝むようにして受け取って、男は去っていった。
その姿に、良夫は母のことを思い出していた。