それは、ほんの一瞬だった。
ふわりとかすめた唇は、その刹那の時に温かさを残しただけで離れていった。
「さ、送りますよ。」
「・・・はい。」
静かな中にも有無を言わせぬ良夫の背中に、由梨子は黙って従うしかなかった。
そして、一週間。
良夫からは何の連絡もない。それどころか現場にも顔を出してくれなくなってしまった。
「ほら、ね?」
「あ、ホントだわ、まただ。」
「今日だけでありゃ十回目くらいだな。」
「しょんぼりしちゃって。何かあったのかねぇ。」
由梨子の働く食堂で、一服終えた男達がひそひそと食堂の賄い婦である渡辺と話している。その心配そうな目線の先には、外を見てはため息をつく由梨子の姿があった。
「ありゃあ、恋煩いだね。あたしにゃ分かる。」
「そういやぁ、最近きれいになったもんなぁ。」
「で、その罪作りなヤローはどこのどいつだって?」
「由梨ちゃん袖にするたぁいい度胸じゃねえか。」
「それがさ・・・」
一層声を潜めて話している一団には気が付きもせず、由梨子は今日何度目とも知れないため息をつく。今日も良夫は来ていない。前はあれほど足繁く現場に通って、その度にここへ顔を出していたのに・・・
あの日、良夫は確かに自分にキスしてくれたのだと思う。
だが、その後の車の中での気まずさ、来ない連絡、それらの事を考えると、やはり嫌われたのだと思うしかなかった。只でさえ極道一家の跡取り娘だと言う負い目がある由梨子は、善良そうな良夫とはこのまま離れた方がいいと一度は考えた。
しかしそう思う端から、良夫の優しい笑顔や頼もしい背中、一瞬見つめられた真剣な眼差しが思い出されて心がかき乱される。あの温かなひとがそばに居てくれるのなら、それだけでどれほど心休まる事か・・・
考え込んでいると食堂の入口が急に騒がしくなった。
新たに入ってきた男と食堂内にいた人々が押し問答を始めたらしい。
「おうおう、どのツラ下げて顔出しやがる!」
「そうだそうだ、同落とし前付けてくれるんだよ。」
「え?落とし前って、今日は僕は追加作業分の見積もりの確認に来たんですけど・・・」
「ちょっと、アンタら。お待ちってば。」
由梨子がふらふらと歩いて来たのを見て、渡辺が皆を止める。
「ああ、由梨子さん。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「良夫さん・・・あの・・・」
「どうかしましたか?」
「あの、しばらくお見えにならなかったものですから・・・私・・・」
「由梨子さん?」
ふたりの話を固唾を飲んで聞いていた皆は、由梨子の目に浮かんだ涙を見てまた色めき立った。良夫に飛びかかろうとするが、渡辺に一喝されてしまった。
「ええい、女心のわかんない野暮天はお黙り!ヤマちゃん!」
「は、はいっ!」
「現場監督は午後戻りだよ。その間にとっととふたりで話し合っておいで。」
そうして優しく由梨子との肩を押すと、
「由梨ちゃん。ほら、上の部屋行っていいから。ちゃーんと自分の気持ちを言うんだよ。」
にかっと笑って良夫と由梨子を奥へと追いやった。
「さ、行った行った。ほーら、アンタ達も油売ってる暇ないんじゃないの?」
渡辺に言われて、とっくに昼休みが終わった事に気付いた男達があたふたと出て行った。
「やれやれ世話の焼ける。」
急にがらんとした食堂の椅子にどっかり座り、渡辺は新たに火を付けた煙草の煙を旨そうに吐き出した。