それは、ふたりの五度目のデートの時の事だった。
ボーナス月だと言う事で、ちょっと奮発した綺麗なレストランに招待してもらった夜の事だ。ほんのちょっぴりアルコールも入って、ふたりでゆっくりと夜道を歩く。
この夜、由梨子は初めて良夫と手を繋いだ。
柔らかく大きな手は、優しく包み込むように握ってくれるのに束縛感は全くなく、しかし頼りないわけでもなく、由梨子を安心させてくれた。
良夫はちょっと照れているようで、いつもよりも無口だ。
由梨子は嬉しくて、普段よりも饒舌になってしまった。
「あ・・・ごめんなさい、あたしばっかり・・・////」
ひとりではしゃいで軽蔑されたかしら?
心配になって良夫の顔を見上げると、温かな笑みがあった。
「いいえ、僕は口べたですから。丁度いいですよ。」
頭を掻きながら照れたように言う良夫を見て、由梨子は心が温かくなった。
あ、この人、とてもいい人だわ・・・
良夫さんの事、もっと知りたい。
そして、もっともっと一緒にいたい。
そして・・・
そして?
由梨子はふと考え込む。
逃げ出して来たとは言え、由梨子は裏の世界では知らぬものがないと言うほどの極道を父に持つ女なのだ。そこを由梨子は断りもなく飛び出して来た。きっと父は自分を捜しているだろう。父のもとに集まる心酔者達がどれほど情熱的なのかを、由梨子は身を以て知っていた。
自らの命さえ、捧げて構わないと思うほどの陶酔・・・
彼らは父のためならば、どんな事をも厭わない。
勝手に出て行った娘が添いたいと願った男を、そのまま放っておくほど彼らは寛容だろうか・・・
黙り込んでしまった由梨子の横顔を見ながら、良夫は考える。
素敵な人だとは思っていたが、これほどまでに心惹かれるとは思っていなかった。
これまでの付き合いの中で知った由梨子の人となり、雰囲気、そのどれもが良夫の心にぴったりと沿うものであった。複雑な生い立ちの所為で、人を信じると言うことができなかった良夫だが、素直でまっすぐな由梨子の真心はひどく心を揺さぶった。
しかし、と良夫は考える。
このまま、進んでもいいものだろうか。
何か訳ありで一人きりではいるものの、由梨子は何不自由なく育ったいいうちの令嬢であると良夫は見抜いていた。いずれ、確執の原因が無くなれば、親の元へと帰るのが一番の幸せだろう。その時、自分などがそばに居て果たしていい結果をもたらすものか・・・
恋心に素直に成れるほど良夫は初心ではなかったし、若くもなかったのだ。
なんとなく黙り込んで歩いているうちに、繁華街の喧噪からすこし離れた所まで来てしまっていた。灯りもまばらな裏通りで、いかがわしい店が建ち並んでいる。
あ、と気が付いた良夫が、表通りに出る道を捜しはじめた時だった。
見るからに裏の世界で生きている風なチンピラが数人、前から現れた。肩で風を切って辺りを睥睨しながら我が物顔で路地を占有して歩いてくる。
擦れ違うのは避けられない、と判断した良夫が由梨子を後ろ手に庇って道を開けた。
その動作が彼らの気に触ったらしい。ぎろりとふたりを睨むと、彼らは絡みはじめた。
おとなしそうな良夫と、これまたおとなしそうな由梨子の美貌が彼らの嗜虐心をそそったものだろうか。
「おうおう、んなとこでいちゃついてんじゃねーぞ、こるぁ!」
「俺らが寂しい宵越しだってぇのに見せつけやがって。」
「お嬢さーん、そんなむっつりよりも俺の方がいい思いさせてあげるよー。」
「そうそう、俺らと遊ぼうぜぇ。気持ちいーい事、教えてあげるよん。ひゃっひゃっひゃ。」
由梨子が怯えたように良夫の背に隠れてしがみつく。その様子にまたチンピラ達は調子づく。
「おー、んな弱っちそうな彼氏に縋っちゃってぇ。無駄だってわかってんだろっ。」
最後の方はドスを効かせた声で、ぎろりと睨みつけながら言う。きっとこの男の決め顔なのだろう、男は自信満々で良夫の前に立ちはだかる。しかし、良夫は平然としたものだ。
いつもと違う相手の反応に、男が鼻白むと良夫は一歩下がって穏やかに言った。
「ここはお引き取り願えませんか?連れも怯えているようですし。」
「あぁ?ざけんなよ、貴様ぁっ!」
「舐めてんじゃねぇぞ、ごるぁ!」
一斉に気色ばむ男達を前に、良夫は平然と続ける。
「穏やかに言っているうちにお引き取り願えませんかねぇ・・・」
良夫の背中に縋り付いてがたがた震えていた由梨子は、そっと男達を伺ってみた。今にも飛びかかりそうだった男達の顔が驚いたように固まっている。
見つかったのかも・・・っ!
恐怖で強張る由梨子の腕をぽんぽんと安心させるように叩くと、良夫はすっと前へ出た。
ただそれだけの動作だったのに、男達はたじろいだように後ずさりする。
「ち・・・っくしょう・・・覚えてろよ!」
辛うじて捨て台詞を吐くと、男達はバタバタと引き返していった。
良夫はほっと気を抜くと、由梨子を振り返った。
「もう大丈夫ですよ。怖い目に遭わせてしまってすみません。もう少し僕が気を付けていたら・・・」
そこまで言って良夫ははっと息を呑んだ。
恐怖に見開かれた由梨子の目からは、涙が後から後から流れているのだった。