「あ、いらっしゃいませ・・・」
「こんにちは。ええと・・・」
「あ、由梨子です。山本由梨子って言います。」
「そうですか。なんだか、よく似た名前ですね。」
「え?」
「ああ、僕は山口と言います。山口良夫です。」
「まあ。」
由梨子の本名は黒田と言うのだが、ここでは由梨子は山本と名乗っていた。由梨子の祖父の旧姓だ。思わぬ相似に由梨子は微笑んだ。この真面目で朴訥そうな男とちょっとした縁があると言う事実が、なんだか少し嬉しかった。
「じゃあ、山本さん。A定食下さい。」
「今日はポーク生姜焼きですけど、よろしいですか?」
「ええ。あ、冷や奴のネギ抜いてもらえますか。」
「はい。」
ネギが苦手なのだろうか。可愛い所があるもんだと、由梨子はくすりと笑った。
「や、どうも苦手で。」
良夫は頭を掻きながら照れくさそうだ。
真面目で温かい人柄の良夫との触合いは、殺伐とした飯場のなかでいつしか由梨子にとっても憩いのひと時になっていった。血生臭い過去を持つ自分の出自に苦しんでいた由梨子にとって、平凡を絵に描いたような良夫の存在が救いとなっていたのだ。
こうして、日々を過ごしていたある日。
「『愛と青春の輝き』?もしかして、リチャード・ヘア主演の?」
「ええ。お好きかと思いまして。よろしければご一緒にいかがですか?」
由梨子が見てみたいと思っていた恋愛映画だ。ここでは映画へ一緒に行くような友人もいないし、何よりも交通手段がないから諦めていたのだ。その映画にも惹かれたが、良夫とふたりでゆっくり話してみるのもいいなと思ったのだ。
決して浮ついた気持ちではなかったと思う。
血生臭い稼業から足を洗おうとしない孝介に耐えきれず、逃げ出して来た由梨子は、しかしまだ断ち切れない孝介への思いを抱えてもいた。
その傷を癒すのに、良夫の人の好さを利用しようと言う気持ちがなかったと言えば嘘になる。しかし、年上で常識人の良夫は安心して甘えられる相手であったし、まったく好みのタイプでもないのだからしばらくは恋をしたくないと思っていた由梨子にとって丁度いい相手だったのだ。
由梨子は良夫の誘いを受ける事にした。