ウージぬ森で 5
慎は目覚めると、抱きしめて眠ったはずの久美子がいない事に気が付いて辺りを探す。
早い夏の日がそろそろ明けようと言う頃で、紫色に染まった空が輝いている。
明けの明星が、東の空に光っている。
今日も暑くなりそうだ。
「久美子?」
隣の部屋で座り込んでいる久美子を見つけて、慎はほっとした。
傍へ坐って腕の中へ入れる。
久美子はひとりで泣いていた。
「どうした?」
優しく問うと、久美子はぽつりぽつりと話し始める。
「あたし、こんな事される資格ない・・・」
「どうして?」
「だって、駄目なんだ。あたし、お前を・・・」
その先は涙があふれて上手く言えなかった。
慎の手が、久美子の背中を撫でる。宥めるように、いつまでも。
その温もりが嬉しかった。
「思い出したんだ。」
「うん・・・」
久美子の様子を見て慎は言うべき事を考える。
彼女は俺との事を過去のものとして封印していた。
最初は思い出したくもないほど嫌なのかと思ったが、抱き返す腕の強さに違うと気付いた。
彼女は辛い過去と決別するために、自らの記憶を封じてしまったのだ。
身体は俺を覚えていたのに、頭も心も俺を忘れていた。
この三日、まったく思い出すことはなかったのに。
なのに、今、あの時に戻ったかの様に、同じ言葉を口にして泣いている。
今ならば。
「久美子。長く待たせたな。俺と一緒に、東京へ帰ろう。
俺はお前を迎えに来たんだ。東京へ帰って、一緒に暮らそう。」
「だって、あたし・・・あたしじゃあ駄目だ。お前の将来もお前の家族も
無茶苦茶にしてしまう・・・だから、お前はっ、あたしのこと、わ、忘れて(ヒック)。
あたしも、お前を、忘れて、ひとりで生きる・・・」
「久美子。」
「お前に抱かれて、嬉しかった・・・うん、その思い出だけで、もう充分・・・
東京に帰って、幸せになってくれ。」
「久美子。」
慎は心に染み入るような深い笑みを見せると、久美子を抱きしめた。
「ひとりで決着付けるな。俺の気持ちはどうなる?ん?」
大きな瞳で久美子の瞳を見つめる。
涙に濡れた睫毛の向こうの瞳に、慎の顔が映っていた。
「お前を迎えにくるために、ずっと準備してたんだぜ。
その、俺の努力はどうなんの?」
「準備・・・?」
「俺の就職先とか、お前の再就職先とか。大江戸への挨拶とか、
新居の準備とかその他諸々。時間、かかったよ。」
「そう言えば、お前って今何やってるんだ?大学は?」
そんな事すら聞いていなかった事に今更ながらに気が付いて、久美子はちょっと呆れてしまう。
「大学は去年卒業した。入学手続きだけして休学扱いにしてあったから、
アフリカから戻ってすぐにW大に入ったんだ。
在学中に、ベンチャー立ち上げてね。今はこんな事をやってる。」
そう言うと、慎は名刺を一枚差し出す。
受け取って久美子はそれを読み上げた。
「株式会社 大江戸興産、代表取締役社長 沢田慎・・・これ、何やってる会社だ・・?」
「主な事業は、飲食業その他の店舗の経営と、小規模移動店舗の派遣と斡旋、
あとは工事現場とか漁船とか港湾荷役とかへの人材派遣、
それから小口融資。そんなところかな。」
「それって・・・」
「そ。お前んところの稼業、株式会社化して一手に俺が引き受けた。
税金もきちんと払ってるし、今じゃ立派な表の稼業だぜ。」
「おじいちゃんは・・・?」
「表向きはうちの会社の会長だよ。若松さんやテツさんミノルさんも皆うちの社員だ。
あの大江戸の屋敷は社員寮として登記したし。
まあ、こんなものは書類の上での事でしかないんでね。
大江戸一家は大江戸一家のままさ。なんにも変わってねぇよ。
ただ、どこへ出しても後ろ指はさされなくてすむぜ。
俺の親父だって文句は言えない。」
あちこちに義理が残っているので、完全に堅気の稼業だけと言い切る事は出来ず
少々法の目をくぐるような事もやっているのだが、それは敢えて言わなかった。
特に言う必要もない。
「沢田・・・」
「お前の再就職先も見つけたんだぜ。サルワタリが今勤めてる赤銅学院ってとこ。
神山からも近いし、荒れてるみたいだからお前向きだってサルワタリが推薦してくれた。」
猿渡の最近の浮気相手、キャバクラ嬢のゆりこが勤める店は、大江戸の傘下なのであった。
そこから手を回して、ゆりこの名を出すとあっさりと推薦を承諾したのだが、慎はそれも黙っていた。
「・・・」
「もう障害は何もない。」
黙って俯いたままの久美子を覗き込み、慎はもう一度言う。
「東京へ帰って、俺と暮らそ?」
顔を上げた久美子の頬には涙が滂沱と流れていた。
「あたし、逃げてただけで、何もしてない・・・
お前の事、考えてたつもりで、一番考えてなかった。
ただ、逃げてただけなのに・・・
きっと、お前を幸せにしてやる事なんて出来ないよ。」
しっかりと瞳をあわし、慎は力強く言う。
「好きだ。もう一度聞くぞ?
はい以外の返事はいらない。俺と結婚してくれるか?」
「・・・いいのか?こんな弱虫で、自分の事しか考えてなかったのに?
本当に、あたしで、いいの・・・か?」
「お前がいい。山口久美子がいいんだ。」
慎の言葉が胸の奥まで染み通って、久美子は素直に自分の気持ちを見つめることが出来るようになる。
「沢田・・・」
「ん?」
「結婚、してくれるか?」
「喜んで。」
その言葉を聞いて、久美子は慎の腕に飛び込む。
熱い口付けを交わしながら、久美子はここ数年、感じる事のなかった安らぎを味わっていた。
あのサトウキビ畑の迷路の中で、立ちすくむしかなかった自分。
見たくないものならいっそ見なければいいと、目を塞ぎ続けて見えないまま出口を探していた自分。
なのに慎は、出口の見えない迷路の中で、頭上に見える星だけを見据えて努力を続け、自分を迎えに来てくれた。
この腕が、この唇が、久美子を迷路から救い出す。
ふたりの上に、朝日が輝いていた。
ざわめくサトウキビの群れも、もう怖くはなかった。
†††
担任教師と教え子なのに。
まるで寄り添うために生まれてきたかのように、ふたりは息があった。
他愛のない日常の繰り返しの中で、少しずつ育まれていったふたりの絆。
それが確固たるものになっていくにつれて、男女の愛が芽生えたのはとても自然なことだった。
水が流れるように。
互いの魂を求め合い、寄り添い合って、そうして愛し合った。
初めてふたりで朝を迎えたときの幸せに満ちあふれた黒い瞳を、
久美子は今はっきりと思い出していた。
†††