ウージぬ森で 3



そして今年のゴールデンウィーク。買い物から帰ってきた久美子は

家の前に男がたたずんでいるのに気が付いた。

門柱に寄りかかり、なにが楽しいのか鼻歌など歌いながら辺りを眺めている。

男は近づく久美子の足音に気が付いてこちらに顔を向けた。

「ヤーンクミ!」

「・・・・内山!!」

白金に務めていた頃の教え子、内山春彦だった。

「よっ!久っしぶりー♪ヤンクミ、元気だったー?」

悪戯っぽい光をたたえた可愛い黒い瞳が自分を見つめている。

優しくて人懐っこくてけんかっ早いけど可愛いらしいこの生徒は、

久美子のお気に入りで、気が合っていると言うのもあって、卒業後もしょっちゅう一緒に遊んでいた。

学校の事で落ち込んでいる時に励ましてくれたり、

生徒の事で困っている時に相談に乗ってくれたり、

さりげなく発揮される優しさにいつしか甘えて、久美子の中で大切な人間になっていった。

しかし、それも沖縄に来るまでのものだった。

時々メールのやり取りをしてはいたが、ここ一年ほどは音沙汰もなくなっていて

久美子はすっかり忘れていたのだ。

「内山!お前、久しぶりだなぁ。」

「おうよ。ヤンクミに会いたくて頑張っちゃったよー。会えなくて寂しかった?」

「ばっか、何言ってんだよ////、ささ、上がれ上がれ!今日はこっちで泊まるんだろ?」

「もっち。って言いたいところだけど混んでたから宿決まんなくてさ。ね、お願い、ヤンクミ。」

「おう!お前が泊まれる位の部屋はあるぞ。さあ上がれ!」

「サンキュー。助かるわ。お礼に今日の晩飯はおごりましょ。」

「お、本当か!よーし、じゃ、早速行くか!」

「ヤンクミ、お手柔らかにー。」

「そうは行くか!久しぶりなんだからな!ガンガン行くぞー。来いっ!」

「ぷぷっ。相変わらずだねぇ。」


近所の居酒屋に落ち着くと、早速ふたりは話し始める。

「んーでさー、そいつがさ、どーしても追加料金は払えないってゴネるわけよ。

こっちとしちゃあ、かけた手間の分だけ貰えなきゃ仕事になんないわけでさー。

課長にゃお小言喰らうし、専務にゃ泣かれるしさー。もう、大変よ。」

「近頃の世の中ってえのは本当に世知辛いなぁ。義理も人情も皆、忘れちまったのかねぇ。」

近況報告や世間話など他愛のない話をして飲んで食べて、けらけら笑ったのだけれど。

春彦は時たま見せる久美子の翳りに顔を曇らせていた。

「なあ、ヤンクミ。」

「んー?なんだ、改まっちゃって。可愛い奴!」

居酒屋からの帰り道、心地よく酔った身体を夜風に冷ましながら

サトウキビ畑の脇を歩いていたふたりは、春彦の言葉で立ち止まった。

「ヤンクミさ、なんか悩んでるっしょ。」

「え・・・」

「また、ひとりで抱え込んで苦しんでるんでしょ。」

「内山・・・」

ざわざわと風に揺れるサトウキビが視界を遮り、左右は見えないのに頭上の星だけが目に入る。

この風景が、久美子は嫌いだった。

サトウキビの壁に押しつぶされて、出口が見えない迷路にいるようで。

不安から思わず春彦の手を探した。

無意識にさし出された久美子の手をしっかり握りしめると、

春彦は久美子の身体をふわっと抱きしめた。

「ひとりで抱え込まないで・・・苦しまないで。

ヤンクミにはいつも笑っていて欲しいよ・・・」

「ごめん・・・」

そんなつもりではなかったのに、溢れ出す涙を止められなくて、久美子は何度もごめんと口にする。

頼りない先公でごめん、情けない大人でごめん、弱い女でごめん・・・

「あたしな・・・教師としての自分に自信がなくなってきちゃってな。

本当に、生徒の幸せを考えてやれてるのかな、って。

高校卒業後の進路って人生の中では大きな岐路だろう?

あたしの一言で、道を踏み外すことだってあるじゃないか。

そう思うとなんだか怖くなっちゃって。

前みたいに、体当たりでぶつかることが出来なくてな。

怖いんだ・・・」

「ヤンクミ・・・少なくとも、俺は、俺たちは皆、3Dを卒業して幸せになったぜ。

あのままヤンクミに出会わなかったら、皆もっと自暴自棄で下らない道に進んで

自分の幸せなんてこれっぽちも考えられないつまんねー人生送ったと思う。」

「・・・皆?」

「ああ、皆だ。当然っしょ。」

「そっか・・・」

その言葉になにか安心して、久美子は春彦に身を預けた。

春彦がゆっくりと顔を寄せてきて、キスされるのだろうかと久美子は思う。

胸の鼓動を感じる。

この優しい腕は心地よい。

でも・・・

どうしようかと迷っているうちに、春彦の頬が久美子の頬に当てられた。

そのまますりすりと頬ずりをされる。

なんだか子犬に懐かれているようで、すごく可愛かった。

「俺さ。失恋したのよ・・・この間。」

「え?あの、温泉町の子か?」

「いいや、あの子とは結局付き合うまでいかなかった。

ヤンクミが沖縄に来た後、寂しくしてたときに慰めてくれた会社の子と付き合ってたのよ。」

「へぇ・・・」

「でもさ、三年付き合って、俺の事信じられねーって言われて逃げられちまった。」

「そっか。悲しいな・・・それは・・・」

「俺の心の中に、自分以外がいるのが嫌なんだとさ。

ヤンクミがこっち来たときふっきったつもりだったのにな。」

「え・・・?」

「俺さ、高校の頃ヤンクミの事、好きだったんよ。

いや、卒業してからも。ずっと傍にいたっしょ、俺。」

「なんで・・?」

「言わなかったのかって?だってヤンクミ好きな人いたっしょ。」

言われて久美子は首を傾げる。篠原さんか、九条先生のことか・・?

そうだったっけ。

「だから、胸一つに治めて忘れたつもりだったんだけど。

今回彼女からまだ忘れてないって言われてさ。確かめに来たんだ。」

そのまま黒いつぶらな瞳で見つめられてドキッとした。

「・・・おぅ・・」

「そしたらさ。違った。」

「違った?」

「そ。俺、ヤンクミの事、好きだけど女として欲しいんじゃない。

さっき抱きしめたときわかったんだ。

・・・ヤンクミも同じ事思ったんじゃない?」

そう。春彦の腕は気持ちよかったけれど、その先、

例えばキスしたり抱かれたりしたいと思うかと言うと、違うのだ。

強いて言うなら、弟みたいな感じ?

「なんだか姉貴みたいだな、って思っちゃって。」

「そうだな。あたしもだ。」

くすりと笑って同意する。

やがて久美子は春彦の手を取ると元気に歩き出しながら言った。

「よーし!今夜は姉ちゃんがとことん慰めてやる!酒買って帰るぞー!」

「くすくす。頼みますよー。ヤンクミ姉ちゃん。」


ゆっくりと語り明かし、寄り添うように眠って、目覚めると手をつないで海を見て。

互いの心の隙間を埋めて、春彦は帰っていった。

「ヤンクミ、ありがとな。本っ当にヤンクミは最高の先公だ!」

「おう!いつでもどーんと来い!受け止めてやるから!」

教師で良かった。白金に勤めて良かった、と久美子は久しぶりに思ったのだった。

白金の事は、久美子の心にトゲのように刺さっていて、治らぬ傷が辛かったのだ。



†††




傷・・・?

なぜ傷ついたと思ったのだろう。

思い出すのも辛かったのは、なぜだったろうか。

不意に、目の前の男の昔の姿が甦る。

「偽善だよ。詭弁なんだよ!逃げてるだけだろ?お前は。

生徒から逃げないのがお前じゃなかったのかよ!

嘘ついてんじゃねぇ!」

激しく自分を罵ったこの男は、その激しい言葉とは裏腹に泣きそうな顔をしていた。

拒絶しなければならなかったのだ。

じゃないと自分が壊れてしまいそうだったから。

幸せにしてやれなかったひとりの生徒。

自分の手で誤った道に送り出してしまったただひとりの生徒。

それはこの男の望んだものだったかもしれない。

でも久美子は自分の罪を許す事が出来なかった。

それがあんまり辛い事だったので、心に蓋をしてしまったのだ。

だから、ずっと忘れていた。

自分は、この男を傷つけ、そして傷つけられた。

それはあれから数年経った今でも癒えていない。


†††