ウージぬ森で 2



「おおーい!おーいってばー!」

久美子は息を切らしながら、ずっと向こうの波打ち際に座り込んでいる男を呼んだ。

夕方、帰宅すると若い男が自分を訪ねて来たと、近所のおばさんに言われたのだ。

海岸へ降りていったと言うことなので、久美子は行ってみた。

人気のない浜辺にぽつんと人影が座り込んでいる。遠目に旅行者らしいと見て

自分を訪ねて来た人物だと判断した久美子は呼んでみたのだ。

「山口ですがーあたしに用があるって言うのはーあなたですかー!」

そばに言ってから聞けばいいものを、気が急いている久美子はつい大声を出してしまう。

その声に、男がものうげに振り向いた。

「山口・・・うっさい・・」

「あれー?・・・なんだ、お前小田切じゃねぇか!

驚いたなぁ。矢吹に続いてお前まで。最近お前らの間で流行ってんのか?ん?」

「ばかか。」

この男は、久美子が黒銀学院に務めていたころ担任した生徒で、名を小田切竜と言った。

この間、ふらりとやって来た矢吹隼人のクラスメートで、親友でもある。

相変わらず何を考えているのかよく分からない顔で自分を見つめている竜に

笑顔を向けて久美子は嬉しそうに言った。

「お、じゃあ恩師が懐かしくて来てくれたんだな!可愛い奴!」

「・・・って恩師じゃねぇし。」

「んだとぅ、こいつぅ!」

わしゃわしゃと撫でながら、手に持った缶ビールを渡すと隣に座り込む。

「・・・何これ・・」

「缶ビールだ。知らねえのか?」

「じゃなくて。」

「ん、なんだ?オリオンは嫌いか?」

「・・いや。」

「じゃあ、いいじゃあねぇか。カンパーイ!」

「・・・乾杯・・・」

「ぷはーっ。仕事帰りの一杯はうめーなぁ、おい。」

「・・・にが・・・」

「はっはっはー。お子ちゃまにはビールは早すぎたか。

よっし、先生が呑んでやるから返せ!」

ばしばしドツキながらビールに手を伸ばすと、竜はゴホゴホむせながらもビールを守る。

「俺のだろ・・・相変わらずがめついんだな。」

「なんだとう!こいつぅ!!」

髪の毛をくしゃくしゃと撫で回すと、その手を竜がぐっとつかんだ。

バランスを崩して久美子が倒れ込むところをすくい上げるように抱きとめた竜は

そのまま久美子を胸の中に入れる。

突然の事に驚いた久美子はしばらく声も出せなかった。

久美子に取って竜はあくまでも生徒の一人であり、男として見たことなどただの一度もない。

それが今この瞬間、久美子は竜を「男」と認識してしまった。

高校時代にふざけて抱きついたときのは明らかに違う、引き締まった男の身体、

うっすらと香る男物の香水、ざらっとしたひげの感触・・・

「は、はな・・せ・・・」

喉がかすれてうまく声が出せなかった。

ドキドキしてそのくせ妙に気詰まりだった。

「嫌だ。」

竜は益々腕の力を強める。

「お前、隼人に抱かれたのか?」

思いもよらないことを言われて、久美子はきょとんとした。

「・・・はい?」

「この前、隼人を泊めたんだろう?そのときお前をものにしたって、あいつ言ってた。」

「あ、あのな?」

「嫌だ。お前が隼人のものになったなんて、そんなこと俺は我慢できない。今からでもいい。お前が欲しい。」

「あ・の・な!」

言われた内容に腹が立ってきた久美子はようやく我に帰ると、ぐいっと竜の身体を押し返した。

「山口・・・」

まるで捨てられた子猫のような瞳で見返されて、

久美子は握りしめた拳を振り下ろす気になれなくなった。

ほぅっと一つ息をつくと、ゆっくり言い聞かせるように話し始める。

「あのな。矢吹のやつは、うちに泊まっていっただけだ。

うちって言っても一軒家だからな。部屋はたくさんあるんだよ。

ちゃーんと別の部屋で眠ったんだからな。変な誤解をするんじゃねぇ////

この山口久美子様はなぁ、貞淑なんだよ!

惚れてもいない男とんなふしだらな事、するもんか!わかったか。」

「ああ。」

「いいか、小田切。お前もな、若いんだからそう言うことをしたいときもあるだろうさ。

でもな、こういう事はな、本っ当に好きな相手とだけ、やるもんだ。

男だったらな、その相手の一生涯を引き受けてやる!ってそのくらいの覚悟で抱くもんだぞ。

女だって、一生ついていく覚悟で身を任すんだからな。

だから、安易にそんな事言っちゃあだめなんだ!

わかったな!!」

「ああ、わかった。じゃあ俺、山口と結婚する。」

明るい色の切れ長の瞳でひたと久美子を見据えながら竜が言う。

「はぁ?何がどうなったらそうなるんだよ、お前。」

論理の飛躍についていけない久美子は大きく嘆息する。

一方、竜に取ってはこの話は単純明快で説明の必要な類いのものではないのだ。

自分は山口が欲しい、だからそれが一生涯を引き受ける事を意味するのならそうするまで。

それのどこがおかしいのだろう。竜にはよくわからない。

「俺、お前が好きなんだ。だから、欲しい。隼人にも誰にもやりたくない。」

「!!お、前・・・な、何言って・・あたしはお前の先公だぞ?

7つも年上だぞ?何血迷ってるんだよ・・・らしくないだろ。」

通じない話に竜はだんだんイライラしてくる。

「らしいって何だよ!俺が俺の望みを口にするのが俺らしくないってのかよ!

お前、高校時代に言ってたろう?自分だけの夢を見つけて追いかけろ、って。

それが人生ってもんだって。俺にとってやっと見つけた夢なんだよ、お前は!」

そこまで言うと、竜はもう一度久美子にむしゃぶりついた。

「否定するな。人を信じる事を教えてくれたお前が俺を捨てるなんて考えたくない。

お願いだ。俺のものになってくれ・・・他のものなんていらねぇんだよ・・・

嘘でもいい。俺を好きだと言ってくれ・・・」

泣いている竜の背中をなだめるように叩いていた久美子は、その言葉を聞いてしばらく考えていた。

こいつとは少なからぬ縁がある。大江戸一家の事を知っても態度が変わらなかった数人のうちの一人だ。

家庭のいざこざから守ってやるために家に匿ってこいつの親父と対決したこともある。

黒銀時代にはもう一人の片割れとともに、一番仲良くなって何かと言うとつるんでいた。

好きか嫌いか、と聞かれれば好きだと言うだろう。

じゃあ、こいつの願いを叶えてやれるか?

否だ。

何故かははっきりと言えないのだけれど、何かが違う気がする。

元教え子だから?それは理由じゃない。

こいつの腕の中にいるのは違和感がある。

もっとこう・・・

こう?

誰と比べているのだろう?

そんな経験がある訳でもないのに。

でも・・・腕の中というのは、もっと・・・

あれは、誰だった?

・・・

ぼんやりと考え込んでいた久美子は、あと2cmの距離まで迫って

はじめて竜が唇を寄せてきているのに気がついた。

「うわっ!」

一瞬で反応したために本能的に身体を動かしてしまった。

久美子がはっと我に帰ったときには、巴投げをかけられた竜が砂浜にのびていたのだった。


気絶した竜を家まで運んで、結局二晩泊めてやった。

手には入れられないけれど、取り敢えず隼人と同じ立場である事に安心して竜は帰っていった。

「また来ていいか?」

そう聞かれて久美子は頷いた。


その後、竜と隼人は今度はふたりで連れ立って三回ほど沖縄にやってきた。

三人で仲良く手をつなぎ、海を見ながらのんびりと過ごした。

お互いがお互いを出し抜くつもりで、結局同じことをして仲良くつるんでいるふたりに、

久美子は大いに癒されたのだった。

「「また来るからな!」」

「「お前、手ぇ出すんじゃねえぞ!」」

「「まねすんな!」」

「「お前こそ!」」

別れ際、竜と隼人は久美子の両側から唇を寄せ、気が付いた久美子がするりと下に逃げると、

ふたりの唇が見事に合わさった。

「うげっ。」「ぎゃっ!」

「あっはっはっはー。いけないことしようとした罰だな♪」

砂のように乾いた心に、少しだけ潤いが戻ったような気がした。



†††



男が身じろぎした。

うっすらと眼を開けて、久美子の顔を認めるとふわりと笑った。

はっきりと目覚めてはいないのだろう。

男は久美子の身体を引き寄せて腕の中へ入れると、安心したようにまた眠り始めた。

そう、自分はこの腕が大好きだった。

何かと言うと、この腕の中に入りたがったものだ。

いつも刺々しく辺りを威嚇し、拒絶していた瞳が暖かい色を宿すようになって

自分を見つめているのに気が付いたのはいつだったろう?

その潤んだ瞳が大好きだった。


そのことをたった今まで忘れていた。

なぜだろう。


優しい微笑みも、気遣うように傍にあった身体も、

とてもとても大切だったはずなのに。

たった今まで忘れていた。


†††