ドラマ・卒業後、おつきあい中。セレンディピティシリーズ。「燠火」のエピソードとリンクしています。



カチカチカチ・・・

静かな音が刻まれていく。

あの日々と変わらずに、

時を刻み続ける。



時過ぎ行く



様々な障害を乗り越えて慎と久美子が結ばれてから、慎は久美子に甘えるようになった。

昼間、大江戸の皆がいる前では全くと言っていいほどそう言う面を見せない慎なのだが、

夜、互いの部屋などでふたりきりになると途端に甘えるようになるのだ。

昼間はどちらかと言えば久美子の方が慎に甘えっぱなしで、

それはふたりが結ばれる前からのことだったし、変わらないのだが、

ふたりの時の慎は明らかにその前後で変わっていた。

「沢田ぁ、ちょっと離してくれるか?」

「だーめ。ここにいて。」

「でも、ビール取りにいきたいんだ。」

「これ飲めばいいじゃん。」

「だって、これは沢田のじゃないか。」

「慎。いいよ、それ飲んで。だからもう少しここ。」

「んもう。」

言いつつも久美子はすり寄ってくる慎が可愛くて堪らないから、

膝の上で慎の胸にもたれたまま慎のグラスからビールを貰う。

ここは、大江戸の慎の部屋。

明日は休日と言う事もあって、夕食のあと、ふたりで飲む事にしたのだ。

離れにある慎の部屋には小さな冷蔵庫があって、久美子のためにいつもビールが冷えていた。

こう言う夜には久美子がここで朝まで過ごすことも多い。

慎が久美子の部屋へ行く事もあったが、そちらは母屋と言う事もあって

夜を過ごすことはあっても慎が朝までそこにいることは滅多にない。

この部屋ならそう言う気を使わなくてもすむため、久美子も気楽に過ごすことが出来た。

それにしても殺風景な部屋だった。

高校時代の慎の部屋もシンプルで無駄なもののない部屋だったが、

インテリアにはかなり凝っていた。

しかし、今の慎はそう言ったことにはあまりこだわらなくなっていて、

離れには必要最低限のものしか置いていない。

モノトーンのものが多いのは部屋の主の好みなのだろう。

その中で、一つ浮いたものがあった。

何度もこの部屋にきているのに、久美子はそれにはじめて気が付いた。

「あ、これ・・・」

「何?」

「これ、まだ持ってたんだ。」

久美子は7、8年振りにそれを手に取って眺めた。

それは、ずっと昔、慎がまだ高校生だった頃に久美子があげたものだ。

夕日をバックにドスを構えている菅原健の精巧なフィギュアが付いた目覚まし時計で

アラームの代わりに兄弟仁義が流れると言う、久美子好みのものである。

「そ。ずっと持ってたよ。アフリカにも持っていったし。」

「ここに置いてあったか?」

「ああ。飾ったのはこの間だけどな。」

「ふぅん。」

慎の持ち物としてはちょっとそぐわないそれを、しかし慎は大切にしていた。

高校を卒業した後、アフリカまで持っていった数少ない持ち物のうちの一つだ。

他のものはほとんどあちらで無くしたり壊したりして処分してしまったが、

この時計だけは壊れたのちもずっと捨てられずに持っていたのだ。



†††



ガシャン・・・

「あ、わりぃ・・・引っ掛けちまった。」

大きな荷物を持って慎の部屋に訪れた男が、その荷物をそばの棚に置いた途端、

棚の上の目覚まし時計が床に落ちた。

褐色の肌のその男は慎の働いているNGOの現地スタッフのひとりだ。

男は時計を拾い上げると、調べ始めた。

「あ、止まっちまってるな・・・すまない。壊しちまったか。」

「・・・大丈夫だ。このくらいなら直せるから気にしないでくれ。」

「すまないな、シン。おわびにこれでも喰ってくれ。」

男はぽんとりんごを一つ、投げてよこした。

「ありがと。」

男が去った後、慎は時計を調べてごそごそとしていたが、やがてもとのように動き出した時計をほっとしたように見て、棚の上へそっと置いた。

「ヤンクミ・・・」

それをじっと見つめながら慎は口の中で小さく呟いた。






ちゃらんんら

ちゃんらららんら

ららららら〜ららら〜


「う・・・ん、まだ眠いのに・・・何・・・?」

この場に似つかわしくない間抜けた音で流れた兄弟仁義に

ベッドの上の女が目を覚まして毒づいた。

褐色の身体を気怠そうに動かして、隣で眠る慎を揺り起こす。

「ねぇ、あれ何よ・・・」

「ん・・・ああ・・」

不機嫌そうに顔をしかめると、慎は流れ続けるアラームを止めた。

「なんでそんな変なもの、使ってんの?」

「うっせぇよ。起きたんなら、帰れ。」

「はいはい、つれないのねぇ。じゃ、また見かけたら声かけてよ。」

一晩限り買った女など顔も覚えていなかったが、

女の機嫌を取って帰すと、慎はもう一度ベッドにもぐり込んだ。






忙しないセコンドの音に、夜半目をさました慎は、

今見た夢にびっしょりと汗をかいていた。

久しぶりに見た懐かしい日本の夢は、慎の心を激しく揺さぶった。

前方をいつもの仲間達が笑いさざめきながら歩いている。

破天荒な担任が嬉しそうに跳ねながら彼らに駆け寄る。

皆に追いつこうとして足を動かしても距離は縮まらない。

仲間達と担任が楽しそうに談笑している。

何かを盛んに笑いながら、担任が仲間達の頭を撫でる。

声をかけようとしたが喉から音が出ない。

待ってくれ・・・

伸ばした腕は誰にも気付かれず、皆との距離がどんどん離れていく。

いつの間にか、乾いた大地の上にひとりぼっちで立っていた。

待って・・・

気が付くと、ベッドの上で荒い息をついていた。

悪夢とは言え久しぶりに見た親しい人たちの顔に、

慎は思わずこぼれる涙を止められなかった。






ガランとした部屋に男が入ってきた。

慎と共に働いているスタッフの一人だ。

「シン、片付けは済んだのか?なんだまだだいぶ残ってるじゃないか。」

「ああ。特にいるもんもないから。適当に処分してくれて構わない。」

「そっか、じゃ色々貰っていくぜ。」

「そうしてくれると助かる。」

「荷物はそれだけか?・・・ってこれなんだ?」

「時計だよ。」

「日本製か?面白いな。お前にしちゃあ変わったもん持ってるじゃないか。

それは持っていくんだ。」

「ん、ま、貰いもんだしな。」

「そっか・・・じゃ、あっちの連中によろしくな。頑張れよ。」

「ああ。またな。」

一年滞在したにしては驚くほど少ない荷物を担ぐと、

慎は次の赴任先へ向かうべく、仲間達に別れを告げた。






「あら、これ何?シン。」

引っ越しの手伝いをしにきてくれた仲間の一人に言われて慎はそちらを見た。

「ああ、それは時計だよ。」

「時計?随分変わってるのね。」

日本製の精巧なフィギュアを面白そうに見ている。

「ああ。」

「じゃあ、これ棚の上におくわよ。・・・あら、動かないわね。」

「・・・ちょっと貸して。・・・駄目だな。」

「どうする?捨てる?」

「いや。」

慎は手近な箱へ無造作に時計を入れると、その箱をベッドの下へ押し込んだ。




「あ・・・」

部屋の整理をしていたシンは、ずっとしまいっぱなしだった時計を見つけて

しばし憮然とする。

こちらに来てしばらくは使っていたのだが、いつしか壊れ、

仕舞い込んでいるうちに忘れていた。

何度か直したのだが、そのうちに直すのをやめてしまった。

こちらでの生活に追われ、日本の思い出が色褪せていくうちに

懐かしい人の面影が詰まったその時計を見るのが次第に辛くなっていったのだ。

それでも他の品物のようにそれを捨て去る事は出来ず、引っ越しの度に持ち歩いていた。

久しぶりにその時計をくれた人のことを思い出して、慎はしばらくじっと動けずにいた。

やがて、ほっとため息をつくと、ばたんと箱を閉じ、

時計をもとのように仕舞い込んだのだった。






帰ろう。

やっとその決意がついた。

自分はこの辛い環境から逃げ出すのかもしれない。

何物をも見いだすことも出来ず、尻尾を巻いて退散するのかもしれない。

7年もの歳月をかけて、何かをなすことも何者かになることも出来ず、

無為に過ごしたのかもしれない。

だけど、帰ろう。

一番大切なものが何か、思い出したのだから。

今度こそ、逃げずに手に入れるために。

自分の人生を確かなものにするために。

帰ろう。

ずっと持ち歩いていた時計をもう一度眺め、大切に荷物の底へ仕舞い込むと

慎は、日本へ帰るために立ち上がった。






今、その時計は大江戸の屋敷の離れにある慎の部屋の机の上に置かれている。

日本からモロッコへ、そしてモロッコ各地を転々として、また日本へ。

長い旅路を慎とともに過ごしてきた時計は、大江戸に来てからしばらくの間は

出されることもなく、大事にしまっておかれたいた。

そして先日、久美子と結ばれた次の日に久しぶりに箱から出されたのだ。

慎は壊れていた時計を丁寧に直し、元のように動き始めると

一番目に付くところへそれを置いた。

長い年月のうちに色は褪せ、彼方此方が欠けたりヒビいったりしていたが

セコンドの音ははじめて貰ったあの日と変わらず、流れている。

止まっていた時が動き始めたような気がした。



†††



机の上の時計を眺めながら久美子が言った。

「この時計、お揃いなの知ってるか?」

「え?」

「対で貰ってな。志摩姐さんの方を気に入ってあたし用にしたんだよ。

この健さんのは大事に取ってあったんだけど。」

「なのに、俺にくれたんだ。」

「おう。あたしの一番のお気に入りだったからな。

お前にあげるならいいかと思って・・・」

「それって、高校時代から俺のこと特別だと思ってくれてたって事?」

「うーん・・・どうだろう?正直言うとよく判んないんだよな。

とにかく、これをあげてもいいと思う位は気に入ってたって事かなぁ。」

「そっか、それでも嬉しいな。それでお前の時計はどうしたんだ?」

「ちゃんとあたしの部屋で使ってるぞ。」

「今でも?」

「うん。」

「そっか。」

久美子の肩を抱き寄せてそっと頬をあわせる。

対の時計が久美子の元と自分の元で同じように時を刻んでいた。

その事実に慎は感慨を深くした。

一度は止まってしまった自分の時計。

それが今、再び同じ場所で同じ時を刻んでいるのだ。

共に歩むことを決めたふたりのように。


カチカチカチ・・・

静かに響くセコンドの音は、久美子と慎、ふたりの時を刻み続けていく。