※ドラマ・卒業後。「天蓋無窮」の続編。
変わっていなかった。
時の重みを感じる門構え、丁寧に刈り込まれた見越しの松、
打ち水された飛び石と、格子戸と。
まるで時など流れていないかのように。
帰郷
「あー、疲れた・・・くっそー、土曜日だってのに
教頭の奴ぅ・・・なんだって、あたしひとりがこんな目に。
とにかく、家に着いたらひとっぷろ浴びて、きーんと冷やした生酒をきゅーっと・・
って、あれ、うちの前に突っ立ってんのは誰だぁ?」
角を曲がり、大江戸の門構えが見えたところで、
久美子は門前に若い男が立っているのに気がついた。
男は少し離れたところから、大江戸の門を見上げてなにやら考えているようだった。
見たことのない男で、すらりと背が高く、適度な筋肉がついた身体がしなやかで
立っているだけでも惚れ惚れするほどの男振りだった。
近頃あまり見かけない、少し古くさい服装で、顎と鼻の下は髭に覆われ
長めの髪をさらりと流していた。
他の場所ならいざ知らず、ここは泣く子も黙る大江戸一家の門前である。
不審な男をそのままにしておくいわれはない。
本来ならば、眼付けの一つもしてやって、縮み上がらせてしかるべきだったが
男があんまり魅力的なので、久美子はしばらくの間、躊躇っていた。
なんとなく、その男の前で本来の自分を出すのが憚られたのだ。
それでも、家に入るためにはその男の前を通らなくてはならない。
「あのう・・」
久美子が声をかけようとした途端、男は久美子に気がついてさっと近寄って来た。
「ヤンクミ!」
あっと思う間もなく、久美子は男の腕の中にいた。
びっくりはしたが、なぜだか嫌な気はしない。それどころか何か懐かしいような。
「ヤンクミ・・・」
もう一度呼ばれて、やっとそれが知っている声であるのに気がついた。
「沢田ぁ~~~?お、お前、沢田なのかぁ?」
「ああ・・」
くぐもった声で返事が聞こえて、久美子は嬉しくなってしまった。
昔よくやったように頭をわしゃわしゃと撫でてやって、背中をぽんぽん叩いた。
「そうか、そうか、お前、沢田かぁ〜。元気そうじゃねぇか、この野郎〜。」
慎が震えているような気がして、久美子はしばらく抱きしめてやっていた。
慎が小声で言った。
「Mon coeur sera toujours pour toi. C'est dur sans toi.」
「え?何?」
慎は久美子の身体をはなすとにっこり笑って言った。
「ただいま。」
「おぅ、お、おかえり・・・」
そのまま久美子の顔をじっと見ていたが、やがて
「じゃ。」
言うと踵を返した。
「お、おい、ちょっと待て。もう行くのか?」
「ああ、お前の顔も見られたし。」
その言葉に久美子はあわてて引き止める。
「待て待て待て待て。待ーてって。えっと、えっと・・・
そうだ!夕飯!夕飯、うちで喰ってけ!
な?おじいちゃんも喜ぶぞ。テツだってミノルだって喜ぶし!
な!な!そうしろそうしろ!おおい、誰か、いないかぁっ。」
最後の一言だけ玄関の中に向かって叫ぶと、
たちまち大江戸の衆が玄関先に並ぶ。
「あ、お嬢!おけえりなさいやし!今日もシノギお疲れさんで!」
「おや?その御仁は・・・」
「あ!おめぇ慎の字じゃねぇか!?」
「うおっ、本当だ。慎の字だ慎の字だ。」
「親っさん、親っさん!慎の字ですぜぇ!」
「ほうほう、久しぶりだなぁ、おい。ま、へえんな。
おう、テツ。旨いもん喰わしてやれ。」
「へいっ!」
「ささ、遠慮せずに上がってくんな。」
「はい・・・では、お言葉に甘えまして。お邪魔いたします。」
折り目正しく挨拶をする慎に一同驚く。
「「「「おおっ。」」」」
「?」
「なんだか、ご立派になりなすったなぁ。」
「おう、なんかこう、一皮むけたっていうか。」
「いやー、めでたいなぁ。」
「慎さん、かっこいい・・・!」
「あれ?お嬢、どうしやした?」
皆の喧噪には加わらず、ぼんやりとしていた久美子は、テツに声をかけられて
はっとすると、そそくさと家に上がった。
「べ、別にっ。何でもない。あたし、着替えてくるから!」
急いで階段を駆け上がって、自分の部屋まで辿り着くと
久美子は机の前に座り込んで、顔を覆った。
「沢田の奴ぅ・・・急に何を言うんだよ、もう・・っ!」
半年くらい前、いつもの合コンの際に篠原がフランス映画が好きだと言う話になって
つい知ったかぶりをしてしまった久美子は、それから慌ててフランス映画の勉強を
はじめたのだ。
大学時代、第二外国語でフランス語を履修したと言うこともあって、今では
映画で使われているフランス語くらいなら簡単に理解できる程度には上達していた。
先ほど、慎がフランス語で囁いた言葉は、だから全部聞き取れてしまったのだ。
慎にしてみれば、自分の気持ちは言いたい、しかし久美子本人に言うのは早い、
と言う葛藤の結果、あのようなことをしでかしたのだろうが、久美子が理解できてしまう
と言うのは流石に想定外だったようだ。
ひと月前。
突然、モロッコから届いたハガキに、久美子は驚いた。
すっかり過去の人となっていた、懐かしい元生徒からの不可解なメッセージに困惑したのだ。
「来月帰る。
会いたい。
沢田慎」
ハガキにはたったそれだけ。
初めて受け持ったクラスのリーダーで、不安定なところも多かったが
友達思いの熱い奴で、いつでも率先して友達のために身体を張って
ボロボロになってたっけ。いい奴だったなぁ。
卒業式では代表として答辞を言ったんだっけ。
その様子を改めて思い出してみて、久美子は赤面した。
一字一句思い出してみると、なんだか切々と愛を訴えられているような・・・?
いやいや、何考えてんだよ、あたし。
でも、会いたいって。やっぱ、恩師に会いたいんだよな?
いや、でもさ。そんなこと、わざわざハガキに書くか?
やっぱこれは・・・。いやいや。
でもなぁ、見送りに行ったとき、やけに熱い瞳だなぁと思ったよな。
あの時の瞳には確かにさ・・・ば、ばかばかしい!
あたしってば何考えてんだ。
でもさ・・・会いたいって・・・
とこんな感じで、この一ヶ月、久美子は悶々と寝付かれない日々を過ごしていたのだ。
思い出の中の慎は、当然のことながら高校生のままなのだから
ドキドキしてもしょせんは生徒、妄想はそこで止まっていた。
しかし、今日。
遠くアフリカの大地で、苦労したのだろう、面変わりしてすっかり大人の雰囲気をまとった慎を改めて見て、久美子は男としての彼に惹かれた自分に気が付かないわけにはいかなかった。
その上、慎が耳元で囁いた、あの言葉。
ドキドキドキ・・・
どうしようもなく胸の鼓動が早まるのを久美子は感じていた。
すると。
「ヤンクミ?」
階下のドアの外から意中の人物の声がした。
「ななななななななっ」
「あがっていいか?」
「いいいいいいいいいいいっ。」
いいやと言おうとしたのだが、どもってしまったせいで逆の意味になってしまった。
あがって来た慎は、風呂を貰ったらしく、大江戸の浴衣を着て髭を綺麗に剃ってあった。
そうして見ると、高校生のころから驚くほど風貌が変わったわけでもないと言うことに
久美子は気がついた。相変わらず綺麗な顔しちゃって・・・
「三代目が、泊まっていけばって言ってくれてさ。
今日の宿は決まってねぇからお言葉に甘える事にした。」
「なんで?おまえ、親御さんのところに顔出さなきゃ駄目じゃねーか!」
「家族は旅行中なんだよ。親父のお国入りにおふくろがついて行って、
おふくろの体調を心配したなつみが付き添ってんだ。」
「何?おふくろさん、大丈夫なのかぁ?」
「ああ、たいしたことはねぇよ。ちょっと疲れているだけらしいな。」
「で、何だって家に帰らねぇんだよっ?」
「俺の留守中に、セキュリティ強化のために鍵を変えたんだよ。
なんで、入れねぇの。俺は、奥地からの乗り継ぎが上手くいかなくって
飛行機の便が変更になったんだよ。で、擦れ違っちまったってわけ。」
「今日はどうするつもりだったんだよ。」
「別に。こんな気候が良くて治安もいい、喰うもんにも寝るところにも困らねえ
先進国の都市にいるんだ。何も困りゃしねぇよ。」
笑って何でもないことのように言う慎を、久美子は感心して眺めていた。
なんというか、肝が座ったと言うか男臭くなったと言うか、
とにかく一回りも二回りもでかくなって帰ってきたような気がする。
教え子の成長が嬉しくもあり、ふたりきりでいることが気恥ずかしくもあり、
久美子はどうにも落ち着かなくて困ってしまった。顔が熱い。
慎は、通じてはいなくとも一度気持ちを口に出したことで、気持ちの整理をつけてしまい
今はすっかり落ち着いている。長期戦の覚悟は出来ているし。
「飯の仕度ができたってよ。」
「へ?もうそんな時間か?」
「ほら、どうした?行こうぜ。」
「ん、ああ・・・おぅ。」
北サハラの奥地から2週間もかけて日本へたどり着いたと言う慎のために
テツがここぞとばかりに腕を振るった、本格和食がちゃぶ台の上にずらりと並んでいた。
「おい、あれを・・・」
三代目が声をかけると、テツが心得たように奥から一升瓶を持ってくる。
「え〜、おじいちゃん!それ開けていいの!!嬉しい〜。」
「こら久美子、おめぇのじゃねぇぞぉ。」
「え〜。」
「はっはっは。ささ。沢田くん。ま、一献。」
「頂きます。」
すっと飲み干すと返杯する。
「三代目・・・」
龍一郎もこだわりなく受けて、
「おう、ありがとよ。」
目を見合わせてにっこり笑い合う。
その様子を見ていた大江戸の衆は、慎の男っぷりに惚れ惚れとしている。
久美子はと言えば、これもうっとりと慎を眺めている。
なんか、ツボだ・・・元生徒のはずなのに、カッコいいっ!
ドキドキしていたせいで、せっかく並んだご馳走もおじいちゃん秘蔵のとっておきの日本酒も
なんだか全然味がしなかった。いや、たっぷり飲み食いしたんだけどさ。
そんなこんなで、ブランクを埋めてあまりある慎のなじみっぷりに
大江戸の衆も昔を思い出してすぐに場は親密なものになり
飲めや食えや歌えやで、久々に大江戸一家はにぎやかな夜を過ごしたのであった。
夜も更けて・・・
龍一郎はすでに床へと引き上げ、その他の面々もつぶれたり街へ繰り出したりと
なんとなくお開きになったところで、久美子は広縁に出てみた。
昼間のように明るい満月が庭を照らしている。
その光の中、慎が一人で月を眺めている。
慎は、北サハラのあのカフェで、あの老人と眺めた月を思い出していた。
「人生を変えるほど美しい満月に出会ったとしても、それを思い出すのは
生涯で数度ではないのかね?」
そう、この黒田の月を俺は生涯忘れないだろう。
しかし、その思いもこれから先の展開によってはないものになってしまうかもしれない。
ならばせめて・・・
慎は久美子が来たのに気がついて、声をかけた。
「こっちへ来てみろよ。いい月だぜ。」
高校時代はそんなことを言うキャラじゃなかったのにな、とか思いつつも
月の美しさに惹かれて久美子は慎の隣に座った。
冷酒のグラスをすっと渡されて、なみなみと注がれると
「月見酒。」
そう言って慎が笑う。
グラスに注がれた酒の液面に月光が反射してきらきら眩しい。
久美子はなんだか幸せな気分になって来た。
ふたりでゆっくり月を眺めて、互いの間の空気が昔のように
なじんでいるのを改めて感じて嬉しくなる。
「なぁ、沢田ぁ。」
「ん?」
「お前さぁ・・・見つかったのか・・・?」
「え?」
「その、アフリカにさ。探しに行ったんだろ。その、なにかを、さ。」
慎は黙って久美子を見つめていたが、やがて言った。
「ああ。見つけた。」
「そっかぁ、良かったな。で、それってどんなものなんだ?」
思わず身を乗り出して慎の方へとにじり寄った。
慎は久美子に向き直り、至近距離でその目を覗き込みながら言った。
「俺の、人生を。」
久美子はその意味を咄嗟に計りかねたが、見つめる瞳の熱さにドキンと心臓がはねる。
慎はそんな久美子をじっと見つめている。
いつまでも動かないふたりを、月だけが見ていた。