ドラマ・卒業後。セレンディピティの少しあと。



六月の雨が降っている。

庭先の紫陽花が鮮やかに光る。

灰色の空の下で紫の光が揺れている。



ハイドランジア



慎は大江戸の縁側に座って飽きもせずに庭を眺めていた。

今日は朝から雨降りで、庭の樹々も池も置き石もしっとりと雨に湿っている。

次から次へと終わりなどないように降り注いで来る雨を、慎は驚きを持って眺めていた。

日本が、世界に類を見ないくらい雨の多い国だと言う事を、忘れるともなく忘れていた。

子供の頃から慣れ親しんだ梅雨の風景のはずなのに、砂漠の国から一気にこの湿った空気の下へと戻ってくると、そのあまりの差に吃驚してしまう。

夏至に近い今頃は、雨雲に覆われてはいても空は何となく明るく、雨も光っているように見える。


暖かな灰色の雲に覆われた空から、銀糸のように慈雨が降る。

乾いた大地に染み込んで、土を潤し、樹々を潤し、大気を潤し、そして命を育む。

硬質な輝きを持ったサハラの空とは違って、優しく湿り気を帯びた暖かい空は

そのまま彼女のようだと慎は思う。

柔らかく、厚く、空を覆って、その向こうにある深淵から俺を守る。

恵みの雨は絶え間なく降り注ぎ、乾いた心にゆっくりと染み通っていく。

廊下の向こうに姿を現した久美子の姿を、慎はぼうっと見つめていた。

俺を守る、天蓋・・・

俺はお前の空になれるだろうか。

それとも、お前を受け止める大地になるべきだろうか。

見つめる視線に気が付いて久美子が慎の元へやって来た。

「こんなところで何ぼんやりしてんだ?沢田。」

瞳を覗き込むようにして問いかける久美子が愛しくて、慎は手を伸ばすとその身体を引き寄せた。

「わっ////なにすんだよぉ////」

こんな突然の愛情表現にまだ慣れていない久美子は真っ赤になって抗議する。

「慎。」

「へ?」

腕の中から逃れようとあたふたしていた久美子は不意に言われてきょとんとする。

「慎て呼んで・・・」

甘えた声でそう言って、慎は久美子の胸に顔を埋める。

「久美子・・・」

名前を呼ばれて、どきりとする。

いつも余裕の表情で、大人びた仕草で久美子を翻弄する慎なのだが、

時折、こんな風に子供のように甘えて来る事がある。

そんなときはいつも不安そうな表情を見せるので、久美子は心配していた。

こいつは、強そうに見えて妙にもろいところがあるからな。

優しく肩を抱いてやると、

「・・・慎////」

精一杯の努力で小さな小さな声で呼んでみた。

ゆっくりと顔を上げて、自分を見つめてきた慎の無垢な笑顔に、久美子はしばし見蕩れていた。

そのまま、どちらともなくそっと唇があわさって、恋人たちの時間が静かに始まる。

大地に染みこんだ雨はやがて地熱によって蒸発し、大気を潤す。

それは柔らかく空を包んで雲となり、また雨となって大地へ還る。

俺を庇護する空の下、そんな風にお前を包む豊かな大地に俺はなりたい。


六月の雨が静かに落ちてくる。

庭の紫陽花が、銀色の雨を浴びて光っていた。




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ここまでお読みいただきありがとうございました。

紫陽花の学名ハイドランジア(Hydrangea)は「水の器」と言う意味のラテン語です。

梅雨の時期、水分を豊富に含んだ土地で花開く紫陽花にぴったりですね。


北サハラでの過酷な体験を通じてセレンディピティを得た慎ちゃんは、引き換えに見えない傷を負って戻ってきました。砂漠で乾ききった心のひび割れに、久美子さんの優しさが雨のように染み渡って、慎ちゃんを癒していくことでしょう。


2009.6.25

双極子