紅い、凝った血のように紅い、美しい月が出ていた。


一日の仕事を終えて部屋に戻ったシンは、そのまま眠る気にもなれず、ぼんやりと月を眺めていた。


一年に一度のこの皆既月食の夜は、ダークエルフの力が最も高まる日だ。自分でも制御しきれないくらい、身体の中に精気が溜まっていて、それを押さえ込むのに今日は一日中緊張していたのだ。


それでも、怪物達に影響を与えるほどの精気をまき散らしていたらしい。


主である太郎王子には、


「今日のお前、なんかくすぐってぇ。あっち行け。寄るな、気持ち悪ぃ!」


と、怒られてしまうし、お城の人々もなんだかそわそわしたり赤面したり、シンの顔を見ては逃げ出してしまう。王子の飼いドラゴンですら、運んでいた手紙を食べてしまうくらい動揺していた。やっぱりドラゴンではなくヤギなんじゃないかとチラと考えたが、それを聞く前に、ぐごぁとひと声を上げて飛び去られてしまった。


あげくの果て、怪物大王にまで、


「わしには稚児趣味はないが、今日のお前を見てると、その気持ちもまんざら判らんでもない。」


などと言われてしまうし、散々な一日だった。


それでも、皆既月食の日には様々な儀式がある事だし、最も格の高い公式の晩餐会から私的なパーティ、城内を開放しての無礼講やパレードなど、お祭り騒ぎが一晩中続く。王子付き侍従であるシンも、役目に従って控えめに立ち働いていたが、そんな感じでなんとなく皆から敬遠されているうちに、ひとりぽつんと残されてしまった。


仕事も、自分の手から離れたところでいつのまにか済んでしまったし、草臥れ果てた身を引きずって自分の部屋まで帰ってきたのが、つい先ほどの事だ。


バルコニーに出て、月の光を浴びる。

ふっと力が抜けて今まで意思の力で押さえ込まれていた精気があたりに溢れ出す。


あまりの量の多さに、粘性すら帯びたような濃密な精気だ。百花でさえ敵わない馥郁たる香りが辺り一面に立ちこめ、月光は明るいのにシンの姿すら霞んで見えるようだ。


一度、流れ出すともう止めどもなく、精気は脈打つようにシンの身体から出て、しばしたゆたった後にゆっくりと拡散していく。来年の春には、随分と新しい命が増えるだろう。時には、鉱物や道具類、無性のものにすら官能を湧き起こす、ダークエルフの力なのだ。


いつもは何ともないシンも、流石に皆既月食の夜の紅い光が効いているとみて、自分で自分の気に煽られて、次第に身体が熱くなっていく。


紅い月は、まるであの人のようだ。 面影を思い描いて、シンはほぅっとため息をついた。


「クミコさん・・・」


一度、口の端に乗せてしまえば、溢れ出すもう思いは止まらない。


辺り一面が、ぼんやりと光り始めた。シンの精気が、名前を与えられた事によって実体化しているのだ。


このまま放っておけば、新たな怪物達がここから生まれてくるだろう。そうなればシンのみならず、一族ごと大王に滅ぼされかねない。


はっと気を取り直すと、バルコニーから庭へ出た。

あたりに散らばった光を集め、指でこねてひとつの形を作っていく。その何かが形をなすに連れて、光が少しずつ消えていく。


庭先から光が消えた頃には、シンの腕には輝く竪琴があった。


封じられてもなお、ざわめく光を鎮めるため、シンは月光の元、静かに竪琴を弾きだした。弦の振動は、音ならぬ音となって怪物ランドの空気に融けていく。


体内に熱く滾る、身を切るような思いを、言葉に変えて竪琴の響きに乗せて遠く飛ばす。それは恋の歌となってシンの口から溢れていった。



 真白な 光り宿す瞳 流る黒髪 白き顔よ


 この楽土の 何処あれか君よ 探し求む 麗しき人



嫋々と流れる歌声に、草も樹も石達でさえ聞き惚れているようだった。


シンの少し掠れた、甘い声は続く。



 この楽土に 何時眠る 我が身 君恋ぬ ひとときでも


 楽園の 異端者の魂 安らぐように 手を伸べて



最後にぽろんと弾いた弦の共鳴が収まると、あとは静寂に包まれた。


シンの腕には光の消えた竪琴だけが残っていた。この先、この竪琴は恋の歌だけをならすことになるだろう。


昂揚した恋心が月に反射して身の内に還ってくる。

それが心地よくて、シンはいつまでも月の光を浴びていた。