浅はかな自分を何度呪ったろう。

昨日までの俺に、唾を吐いてやりたかった。



Monkey Bites 3



俺は汗をぐっしょりかいて飛び起きた。

悪夢だった。

久美子が遠くで哀しそうな眼をしてる。

その眼は俺を見つめているのに声は届かないようだ。

滂沱の涙を流しているが、嗚咽は俺の耳には届かない。

俺は必死に呼ぶのに、久美子は気付かない。

俺は久美子のそばに行こうとしたが

足下から何かがわき上がって来て、俺の脚を捕らえられてしまう。

その何かはたくさんの小さな手を伸ばしながらぞわぞわと這い上がって来て、

俺の下半身をすっぽり包むと俺を責め始めた・・・

惑乱して背徳的な悦びに喘ぐ俺を、

久美子が哀しそうな眼でじっと見つめている。

久美子っ・・・待って・・・置いていくな・・・

呼びかけは声にはならず、くるりと後ろを向いた久美子が立ち去っていく。

その胸にはおだやかな顔の赤ん坊が抱かれている。

赤ん坊の顔は真っ青で死んだように動かない・・・

待て・・・その子は・・・その子は・・・

一人残された俺は、罪の意識に責めさいなまされながら絶頂を迎え

・・・そして眼を覚ました。

下着がべったりと汚れていた。

ひどい自己嫌悪に陥って、俺はしばらく起き上がれなかった。



強い日差しが照りつける蒸し暑いアスファルトの上を、

俺は、重い足を引きずりながら歩いていた。

風はほとんどなく、陽炎がゆらゆらとたっている。

夏休み後半に開かれる夏期特別セミナーの申し込みに、

保護者の承諾が必要だと言うので、実家へ行く途中だ。

通りの向こうの白い建物から久美子が出てくるのが見えた。

久美子・・・

ずいぶん久しぶりに見た気がする。

ひどくやつれている。顔色も悪い。

白い建物は、病院だった。

『森本産婦人科』

うつむいて、ため息をつきながら、とぼとぼ歩む久美子を見て、

俺はこの前の京さんの話を思い出していた。

やっぱり・・・

足元が音を立てて崩れていくような気がした。

疑っていた訳ではないが、心のどこかで嘘であって欲しいと思っていたらしい。

そのむなしい願いも、今日くだけ散ってしまった。

非合法では怖いと思ったのだろうか・・・

俺は久美子の後を追いかけた。



声をかけようとしてかけられず、俺は久美子の

後ろ姿を眺めながらずいぶん長い間、歩いていた。

久美子はだるそうに歩いている。

大きな交差点、長い信号待ちで有名なその横断歩道の手前で、

俺はとうとう久美子に追いついてしまった。

何を言っていいかわからなかったが、取り敢えず声をかける。

「よぉ・・・」

久美子は驚いた様子だった。

「!・・慎・・・どうして・・・?」

「いちゃ悪いのかよ・・・」

なんと言っていいかわからなくて、そんなことを言ってしまう。

信号待ちの人の群れで、歩道は暑苦しかった。

「久美子・・・」

久美子は俺をちらっと見てまた前を向いた。

「ん?」

「俺、聞きたいことがあるんだ・・・

お前、さ。俺に何か、」

言いかけたところで信号が代わり、同時に久美子の着メロが鳴りだした。

発信者を見た久美子は、慌てて電話を取りながら言った。

「すまん、今時間がないんだ!

また後で電話するよ!」

「今日の夜、俺の部屋に来てくれないか?」

「いや、部屋はだめだ。また後でな!」

有無を言わせぬ調子でそう言い捨て、

あっという間に横断歩道を渡ると、雑踏に紛れてしまった。

俺は呆然としていたが、仕方がないとあきらめ、

久美子からの電話を待つことにした。


実家へ着くと、おふくろが古いアルバムや衣類なんかの整理をしていた。

見るともなしに見ていると、おふくろがアルバムを差し出した。

「ほら、これ見て・・・怜ちゃんが一才の時だわ。

剛さんが若いわねぇ。うふふ。こうして見ると

怜ちゃんは剛さん似ね。あなたと怜ちゃんも似てるけど

あなたはどちらかと言うと、私の父に似ているわ・・・」

おふくろはひとりでそんな事を言って笑っている。

「こっちは怜ちゃんと慎ちゃんね。

怜ちゃんは弟が大好きでね・・・いつもいつも抱っこしたがったのよ。

落とさないように見はっているのが大変だったわ。」

おふくろはゆっくりとアルバムをめくっていく。

「うふふ、この慎ちゃん、可愛いわ。

この写真、好きなの。自分の赤ちゃんて格別なのよ。

怜ちゃんが生まれたときの剛さんときたら。ふふ。」

親父のそんな話を突然はじめたおふくろに俺は驚いていた。

おふくろは、その頃の苦労話をしみじみと話していた。

親父とは学生結婚だったと聞いてはいた。

しかし、その頃の話をこんなに詳しく聞くのは初めてだった。

親父とおふくろの、お互いへの愛、子供たちへの愛・・・

それを素直に聞けるのは、俺にも愛する女が出来たからだろうか。

アルバムは更にめくられて、家族で映っている写真が見えた。

そこに映っているのは、幸せそうな若夫婦だった。

光り輝くような笑顔で、無邪気に笑う小さな子供を抱いた若い妻。

守るように少し後ろに立って、幸せそうな若い夫。

その表情は、誇らしげで自信に満ちあふれている。

自分の家族を守っていると言う自負。

愛する女とその子供が、笑っていられる場を与えたと言う誇り。

自分だけがそれを出来るのだと言う自信。

それが男の顔を輝かせる。

そうか・・・

俺の中で何かが腑に落ちたような気がした。

そうか、こういうことなんだ。

メスを手に入れタネをつける。

愛する女をこの手で抱いて、子供を作り、その笑顔を守る。

その腕の中で、その庇護のもとで家族が笑う。

それが、征服すると言うことの、本当の意味だ。

そのために、男はみんな戦うのだ。

ならば。

俺は・・・

久美子と、久美子の愛する家族を守りたいと、願ったのではなかったか。

そのためにはどんなこともすると、誓ったのではなかったか。

血の出るような努力をして、今ここまで登ったのではなかったか。

「大人」の関係になってから、いずれ結婚を、と考えてはいた。

子供だって欲しいと思っていた。

しかし、それは夢のようにふわふわした上っ面だけのものではなかったか。

その後ろに、生活があり、責任があり、現実があることなど、

理解していなかったのではないか。

俺の部屋で別れたときの久美子の表情を思い出した。

「そんなこと、な。」

寂しそうにそう言っていた、あの言葉の意味は・・・

「・・・っ・・・」

耐えきれず嗚咽を漏らした俺を、おふくろが驚いて見つめていた。

おふくろはしばらく俺を見つめていたが、やがて俺に泊まっていくよう勧めると、

アルバムを片付けてそっと部屋から出て行った。

俺はしばらくそこに踞っていたが、玄関に誰かの気配がしたのを機に立ち上がり、

部屋へと引き上げた。


その夜。

久美子からの電話は相変わらずこなかった。

俺は家の電話から黒田の家の電話へかけてみた。

「はい、黒田です。」

久美子の声が聞こえてきた。

「久美子・・・俺・・・」

「慎!お前、どうしたんだ。」

「なぁ、久美子・・・お前、子供・・・」

「はぁ?子供?なんのことだ?」

やっぱり俺には隠しておくつもりなのか。

「子供ができたってさ・・・」

「子供って、あたしとお前のってことか?」

「ああ。」

「・・・子供なぞ産む気はないぞ。」

冷たい言葉が返ってきて言葉を失ってしまう。

「・・・!」

厳しい声で久美子が言う。

「お前、今の状態でそんなことが出来ると思ってんのか?」

「いや・・・」

「余所見してて一人前になれるとでも思ってんのか?」

「いや・・・」

「じゃあ、この話はおしまいだ。」

「待て。」

「これはあたしの問題だ。おめぇにゃあ関係ねぇ。」

取り付くしまもな言い方だった。

「関係ないなんて事があるかよ!」

俺は段々切れてきた。

「お前に自覚がないんだから、仕方がないだろう?」

「なんだよ、それ!俺はっ!」

「静かに話せないなら、もう切るぞ。

頭を冷やしてから、かけ直せ。

それじゃあな。」

電話は一方的に切られ、俺はツーツーツーと言う音を聞いたまま呆然としていた。



部屋に戻ってベッドにごろりと横たわり、先ほどの言葉の意味を考えた。

俺はまだ18才だ。

世間では優秀と呼ばれ、一流と言われる大学に通ってはいるが

何かが出来る訳でもなく、親の世話になっている身だ。

25才の、仕事を持っている社会人からすれば、

伴侶としてみることなど出来ないに違いない。

篠原が相手なら、あいつにこんな思いをさせなかったはずだ。

俺が、頼りないガキだから・・・

あいつが俺のせいで殴られた時のことを思い出した。

人質になった俺のために、あいつはされるががままに痛めつけられたのだ。

あの時の悔しさがよみがえる。

今の俺は、あの時の俺と何も変わらない。

俺と離れた方があいつのためだろうか・・・

知らず知らずのうちに涙がこぼれていた。

開けっ放しの窓から、細い月が見えていた。

2年前、あのバルコニーで、

久美子は傷だらけの手を伸ばし、俺を救い出してくれた。

あの夜も、こんな月が出ていた。

あの時から。

俺はひたすら久美子を追い求めて・・・

そうしてやっと手に入れたのに。

ずっとついていこうと誓ったのに。

俺は振り出しに戻ってしまったのか。

自分の愚かさを呪いつつ、そのまま眠り込んでしまった俺は、

またあの悪夢を見た。



久美子が遠くで怒ったような眼をしてる。

その眼は俺をじっと睨んでいる。

胸にはおだやかな顔の赤ん坊が抱かれている。

赤ん坊の顔は真っ青で死んだように動かない・・・

久美子は胸元に何か話しかけているようだ。

しかし、赤ん坊は死んだように動かない・・・

俺は必死に呼ぶのに、久美子は答えてくれない。

俺は久美子のそばに行こうとしたが

足下から何かがわき上がって来て、俺の脚を捕らえようとするから

こんどは必死になってそれらを蹴散らす。

たくさんの小さな手の先には、死んだように青いたくさんの赤ん坊の顔があった。

驚きのあまり動きを止めると、赤ん坊たちは溶けたような身体を伸ばしながら

ずるずると這い上がって来て、

俺の下半身をすっぽり包むと俺を責め始めた・・・

くるりと後ろを向いた久美子が立ち去っていく。

久美子っ・・・待って・・・置いていくな・・・

一人残された俺は、罪の意識に責めさいなまされながら絶頂を迎え

・・・俺は眼を覚ました。

また下着が汚れていた。



シャワーを浴びながら、俺は長いこと泣いていた。

結局そのまま夏風邪を引いて寝込んでしまった俺は、

ちょうど予定もなかったのもあって実家の世話になることにした。

怖くて恐ろしくて久美子に電話をかける事もできず、

悪夢に苛まされて、俺はうなされ続けた。