俺は調子に乗っていた。
すべてを手にいれた気がして、浮かれていたんだ。
Monkey Bites 2
それから。
しばらくあいつとは連絡が取れなかった。
俺もなんだか意地になってしまって、こちらからは連絡を取る気にはなれなかったのだ。
メールが来たのでちょっと期待したら、携帯会社からのお知らせだったので無視した。
あいつからも電話はなかった。
バイトに行ったりセミナーに行ったりと忙しかったのもある。
こんなに長いこと離れているのは、久しぶりだったので
なんだか、身体の左側が寂しい。
身体の下側も・・・
ここのところ、毎日のようにやっていた俺は、
久しぶりの禁欲生活に慣れなくてイライラしていた。
以前のように自分で、と言う気にもなれず
悶々と眠れぬ日々が続いた。
今日は、大学に来ていた。
大学生協から、注文していた本が入ったとの連絡が来たので、取りに来たのだ。
鮮やかな葉をつけた銀杏の並木が、夏の日差しに輝いている。
講義のない期間の大学は閑散としていて、普段より重厚な雰囲気だ。
学部の学生があまりおらず、院生や教授が目立つせいだろうか。
研究会でもあるのか、学者然とした人たちが何か熱心に議論しながら歩いていた。
昼食をとろうとカフェテリアに行くと、それでもそれなりに人がいた。
サークル活動中なのだろう、あちこちに学生のグループがあった。
うちの大学のサークルには他大学の女子大生が大勢いる。
東大卒の男をゲットできるチャンスだと言うことで、
あちこちの大学から集まってくるのだ。
当然、競争率は高くて、家柄・学歴・容姿ともに、
ハイレベルの女子大生がそろっているのだそうだ。
女子の少ない、いたとしてもさばさばしたタイプが多いこの大学、
男のほうも無粋な野暮天が多いせいで、こういうお見合いサークルみたいな組織は、
かなりの盛況だと言う話を聞いた。
まあ、俺には関係ないが。
さっき生協で本を受け取ったときに一緒に買った雑誌を眺めながら、
ひとりで食事をしていると、
隣にすわったそう言うちゃらちゃらした女たちの声が聞こえて来た。
「できた?」
「しーっ、大声出さないで。」
「マジヤバいって。なんで気をつけなかったのよー。」
「だってさぁ、あいつ、煮え切らないんだもん・・・」
「何よ、じゃわざと?」
「実は、そう。」
「だからってさぁ。それで引かれちゃったらどーすんのよぉ。」
「ま、その時は、こっそり・・・ね・・」
「げ、ヤバいってそれ。大金いるんでしょ。」
「だいじょぶ。安全で誰にもバレない方法聞いたから。
あのね、薬があってね・・・」
そのあとは小声になってしまって聞き取れなかったが
どうやら男をつなぎ止めるためにわざと妊娠したと言うことらしい。
こっそり云々とは堕胎のことを言っているのだろう。
手練手管でそんなことをする女に俺は吐き気がして来た。
早々に食事を切り上げ、家に帰るために歩き出した。
途中、何度か携帯を確認したが着信はない。
相変わらず携帯会社からのお知らせメールだけだ。
見もせずに削除した。
帰りの電車は混んでいた。
斜め前に立っている女の横顔が見える。
時々胸元を覗き込んでは、ものすごく幸せそうな顔をしている。
まるで宝物でも持っているみたいだな。
何を持っているんだろうと思っていたら、動いた隙にそれが見えた。
赤ん坊だった。
よく見ると赤ん坊の父親らしき男と連れ立っている。
うちの高校によく居るタイプ、それも不真面目な部類だな。
男はまだ若い。俺と同じか一つ二つ上くらいか。
女も同じくらいの年で、俺はびっくりしてしまった。
幸せそうな女に比べ、男のほうは不機嫌で、あからさまに迷惑そうだ。
お前、かわいそうにな・・・
俺は心の中で赤ん坊に呼びかけた。
でもさっきの女どものもとに生まれてくるよりも、幸せだと思うぞ。
がんばれよ・・・
それにしても無責任なヤローだな。
子供が出来たんなら責任てもんがあるだろう?
愛する女を守るのが男ってもんだ。俺なら、
俺なら?
俺なら・・・
俺なら・・・
・・・
改札を出てぼんやりと歩いていたら、どんと誰かにぶつかってしまった。
「あ、すいません・・・」
ろくすっぽ相手も見ずにそう言って行き過ぎようとすると、
ぐいっと襟元をつかまれて引き戻された。
やべ・・・
それでもとっさに身構えながら相手を睨みつけようとすると
「おい、慎公。」
「京さん!なにやってんのこんなとこで。」
「こんなところって、ここはうちのシマだぜぇ。
ま、見回りってやつよぉ。」
俺は無意識のうちに神山に来ていたらしい。
久美子、俺お前に惚れすぎてておかしくなっちゃってるよ・・・
京さんは俺の顔をじっと見ていたが、やがて声を低くして言った。
「ちょうどいいや。おめぇに聞きたいことがあったんだ。
ちぃと付き合えや。」
京さんの口調には、有無を言わせないものが含まれていて、
俺は黙って従った。
京さんは、路地奥の小さな雑居ビルに入って行くと、階段脇の小部屋に声をかけた。
「おぅ、部屋ぁ借りるぜ。」
「大島若頭!どうぞどうぞ。
若いのに飲みもん用意させやすから。
どうぞごゆっくり・・・」
「「「ちぃっす!」」」
「おぅ、構わねぇでくんな。ちぃと人払い、頼むぜぃ。
あと・・な?」
「はいっ!他言無用ですね!」
京さんはそのままずんずん上がって行く。
「慎の字、こっちぃこいや。」
暗い雰囲気に押されるように俺は京さんに導かれるままに部屋へ入った。
狭い部屋の中はほの暗く、深い絨毯とソファがぼんやり浮かび上がっている。
艶やかなサイドテーブルがあり、大理石の灰皿とライター、葉巻の箱・・・
部屋の隅には小さなバーカウンターがしつらえてあり
グラスや外国製の酒瓶が鈍い光を放っている。
「なにここ・・・」
「ふん。ま、いろいろと、な。」
京さんが凄みのある笑みを浮かべたので、
俺はそれ以上は聞かないほうがいいのだと悟って聞くのをやめた。
やがて、奥のほうから男が出てきてバーの前で飲み物の支度をはじめた。
クリスタル製のキャラフに、琥珀色の液体。
オールドグラス、アイスサーバー、ソーダ・・・
ウィスキーだろうか。
京さんはふたり分の飲み物を受け取って一つよこすとおもむろに言った。
「慎公・・・おめぇ、お嬢に手ぇ出したな。」
質問ではなかった。
「・・・」
テーブル越しにぽかりと殴られる。
「いってぇ。」
「へん!当然の報いだ。へへっ。」
それきり京さんは黙っている。
用意をしていた男はいつの間にかいなくなっていた。
どうやら奥の見えないあたりにもう一つ扉があるらしい。
長い沈黙に堪り兼ねて、
「京さん、俺っ、」
言いかけると遮るように京さんが
「おう、慎の字。お嬢をキズもんにして捨てたりしたるぁ
どうなるかぁ、おめぇさんのこった、ちゃあんとわかってるんだよな?」
念を押すように聞く。
「俺!真剣だ!本当だよっ、京さん!」
京さんはしばらく俺を睨んでいたが、やがて吐き出すように言った。
「・・・おめぇが真剣なのは知ってる。
いや、知ってると思ってたぜ。」
含みを持たせた言い方に俺は苛ついた。
「どーいう意味だよっ。俺の気持ちは変わらない。
あいつのためなら死んだっていいんだ!」
真っ向から京さんの眼を睨んで言う。
京さんはまたしばらく躊躇っていたが、やがて意を決するように言った。
「おめぇ、お嬢がちぃと厄介なことになってるの、知ってっか・・・?」
「何?なんだよ?」
「知らねぇのか・・・じゃあお嬢ひとりでカタぁつけるつもりなのか・・・」
また黙り込んでしまう。
「・・・何のことだよっ、話せよ、京さん!
ここまで話しといて、バックレはなしだぜ。」
詰め寄ると京さんは渋々ながら話し始めた。
「お嬢がおめぇにも隠してるんじゃねぇかとは
うすうす思ってたんだ。」
「だから、何?」
「だから、言おうか言うまいか、ずいぶん悩んだんだが・・・」
「言ってくれよ。」
京さんはまたしばらく黙って酒を飲んでいたが、
やがて、
「ここだけの話、な。お嬢はこの間っから誰にも内緒で
もぐりの医者んとこ通ってるらしいんだ。」
じっとグラスを見つめながら言う。
「医者?それってあの帝大の仏文科卒とか言うじーさんのところ?」
「あのセンセーを知ってんのか。」
薄く笑う。
「そおじゃあねぇ。そっちじゃなくてうちのシマのお姫さんがたの世話を
頼んでるほうの医者のこった。」
「え・・・?それって、どう言う・・・」
とっさに意味が分からなかった。
京さんはふうっと息を吐くと
「ダタイ専門の医者がいんのさ。
シマのうちに飼っておいたほうが
何かと便利なんでな。」
言葉の意味が落ちてくるのに時間がかかる。
ダタイ・・・堕胎・・・!
「そこに、久美子が・・・?」
理解した途端、金槌で頭を殴られたような気がする。
晴天の霹靂だった。
じろっと俺を睨んで京さんが言う。
「おぅ。」
「な・・んで・・?」
一気に動悸が早くなる。
「心当たりがあるんだるぉが!」
「そ、そりゃ・・・」
背筋を冷たい汗が伝う。
「だったらそう言うことなんだるぉよ。」
「!!」
言葉がうまく出てこない。
「う、うそだろ?か、確認を、」
吐き気が襲ってくる。
「いいか、これはお嬢がひとりで決めたことだ。
だから俺はなんにも言えねぇ。」ぎらりと俺を睨んで、
「だがな、慎の字。お嬢がもしそう言うことになったらな。
俺はおめぇを許さねぇぜ。たとえお嬢が許しても、だ。」
低い声で静かにそう言う京さんには、黒田にこの人ありと言われた若頭の迫力があって
ただの大学生でしかない俺は、気を飲まれてしまう。
「とにかく、だ。いずれ落とし前はつけてもらうぜ。」
からからに乾いた喉からなんとか声を絞り出す。
「・・・ああ。」
その後はどうやって帰ってきたか、もう覚えていなかった。
気がつくと俺は、真っ暗な自分の部屋にひとりで座り込んでいた。
諤々と震える膝をなんとかなだめて立ち上がり、携帯を探す。
震える手で「山口久美子」だけびっしり並んでいる履歴から、
一つ選んで発信を押す。
出なかった。
もう一度・・・
コールは鳴るのに、やはり出ない。
何度もかけていたらやがてかちゃっと音がして、
「お客様のおかけになった番号は、現在、電波の届かないところにあるか・・・」
無機質な声が聞こえてきた。
電源を切られたのか・・・
携帯電話を放り投げた俺はベッドに潜り込むと、
身体を小さく丸めて、いつまでもがたがたと震えていた。