原作・卒業後、おつきあい中。



赤い髪がくるりと回って、息子はドアに手をかけた。

議論はこれでおしまいだと、その背中が語っていた。


「あんたはそんなにヤワじゃないだろ。お・や・じ。」


出て行きながら振り向いた息子は、いたずらっぽい声でそう言って後ろ手にドアを閉じる。ぱたんとドアがなって足音が廊下を遠ざかって行った。


その音に、不意に記憶が呼び覚まされた。

ふわりと広がる白い・・・


ずっと心に引っ掛かっていた欠片が、ぱちんと合わさったような気がした。

そうか、そうだったのか。


「プッ・・・クックック・・・フハハハハ・・・」


なぜ気付かなかったのだろう。それが可笑しくて、郷は一人いつまでも笑っていた。



谷間に咲く



百合の花のようだ・・・


一番始めに思ったのはそれだった。

なぜそう思ったのかはわからない。

とにかく、少年の日の郷はそう感じたのだった。


その人は、月明かりの中で儚げに立ちつくしていた。


長い髪が風に梳かれてさらさらと流れていた。

白いワンピースの裾がふらりと揺れる。

ほっそりとしたその姿は寂しげで、月を仰ぐ横顔に涙が光ったような気がした。


とっぷりと日の暮れた塾の帰り、まっすぐ家に帰る気にもならず、郷は公園で道草を喰って行く事にした。帰りたくない理由は色々あるが、ひとつは鞄の中に入っている答案用紙だ。塾の先生にもたっぷりと怒られた上、補習まで受けさせられたのだ。家に帰ればまたお説教が待っている。事によると夕食抜きかもしれない・・・

とぼとぼと公園を彷徨っているうちに、その人を見たのだった。


しばらくぼうっと眺めていたら、不意にその人が振り向いた。

郷が見ていることに気が付くと、彼女は慌てて目尻を拭った。そして優しく問いかける。


「ぼうや、どうしたの・・・?迷子になっちゃったの?」


子供扱いされたことが悔しくて、ついムキになる。


「ちがうよ!さんさく中だ!」


「散策・・・?まあ、そうなの。」


そう言ってその人は花のように微笑んだ。

白い顔が幻想的で、風にふわりと髪が乱れると甘い香りが流れてきた。


なんとなく照れくさくてプイとそっぽを向いた。


「お姉さんこそ、何してたのさ?」


「ふふ・・・お月様。」


「月?そう言えば満月だね。天体観測?」


「いいえ・・・お月様とお話ししてたの。」


「変なの。月はしゃべらないよ。」


そう言うと、その人は寂しそうに笑って、そうかもね、と呟いた。

その笑顔は、郷の心の中にいつまでも残っていた。


月の光の下で、まるで幻の様に儚げなひと・・・


彼女にあって以来、郷はクラスメートの女の子に全く興味が持てなくなってしまった。日焼けして、棒みたいな脚の汚い膝小僧に絆創膏を貼った小学生なんて、女とは言えない。そんな生意気なことを思ったものだ。


郷が次にその人と出会ったのは、中学生の時だった。


家からはかなり距離のある国立付属中に電車で通いはじめた郷は、通学途中にたまたま降りてみた駅の繁華街で、彼女を見かけたのだ。


季節は違ったが、白いワンピース姿でふわりと裾を弾ませて歩く姿は、やはり百合の花のようだった。あの時よりもずっと大人っぽくなって、明るいきらきらと輝くような笑顔が眩しかった。


彼女に色気を感じたのは、自分が思春期を迎えたからだったのだろうか。


とにかく、その正体も自覚しないまま彼女に深い興味を持った郷は、しばしばその駅を訪れ、何をするでもなく歩いてみたりした。


月に一、二度くらいは、彼女を見かけることが出来て、そんな時の彼女は同世代の女友達と楽しげに歩いていたり、着物姿で母親らしい上品な女性と澄まして歩いていたりした。あの、初めてあった時の儚げな気配は影を潜め、生き生きとした姿が印象に残った。


見かける時にはいつも白い服を着ている名も知らぬ彼女のことを、いつしか郷は心の内で「白百合の君」と呼ぶようになっていた。彼女のことを考えていると、胸の内が苦しいような何かを叫びたいような気持ちになるのだが、不思議と悪い気はしなくて巻き起こる心地よい興奮に身を任せていた。


それが初恋だったのだと、果たして自覚していたかどうか・・・

とにかく、郷はある時ついに決意して道行く彼女の後をつけてみたのだ。


どんな結果を求めているのかもわからなかった。

ただ、彼女のことをもっと知りたかった。


白いスカートの裾を揺らして、彼女は弾むような足取りで歩いていく。

商店街を抜けてその先の住宅街へと入って行く。


両側に長い塀が続いていて、正面にこんもりした森が見える。

やがて堂々とした冠木門が現れた。


彼女がその前に立つと、待ち受けていたように脇の潜り戸が開き、彼女は慣れた様子でそこを潜った。門を開けたらしい老人と二言三言言葉を交わし、密やかな笑い声が起こった。


潜り戸がぱたんと音を立てて閉められた。



それから郷は何度かそこへ行った。

もしかしたらと淡い期待を抱いていたのは否めない。事実、塀沿いを歩いてみた時に中から彼女のものらしい笑い声が聞こえた事が一度だけある。お嬢様、と呼ばれていたように思う。


その日も、郷はその門前へ行っていた。

しばらくの間見るともなく見ていると、黒塗りのベンツが門前に停まった。


中から黒服黒眼鏡の厳つい男達が出てきて、後部座席のドアを恭しく開けると紋付袴姿の男が出てくる。門が開くと、男は中に並んだやはり黒服の男達の礼を鷹揚に受けて門内に消えて行く。


彼らがどう言う稼業のものなのか、誰の目にも明らかだった。

今の鋭い目をした男がこの家の主なのだとしたら、彼女はその娘と言うことになるではなか。


だとすれば、と郷は考える。

自分とは住む世界が違う・・・


郷の家は本々士族で、明治時代から多くの優秀な軍人を輩出してきた。戦後体制になってからは、警察官僚、政治家、検察官、裁判官などを勤めている家系だ。公安委員長である祖父、検察官である父、刑事局長である伯父・・・そのことを考えれば、極道の娘と関わりを持つのは自重するべきだ。


苦しみながらも、郷は彼女のことを封印した。

そしていつしか月日は流れ、大人になった郷は遠縁の娘である今日子と見合い結婚をしたのだった。初めて今日子を見たとき、桔梗の花のようだと思った覚えがある。


百合よりも自分に相応しいと思った。






ぱたんと閉まったドアの音に呼び覚まされた白百合の記憶は、すぐさま昨日の朝の出来事に結びつく。息せき切って駆けつけてきた息子の思い人は、珍しく髪を解き流し、白いワンピースの裾をふわりと翻していたのだ。


その姿が彼女と重なる。


そして、神山町の彼女の家・・・

あれは遠い少年の日に彼女を追って辿り着いたあの家だったのだと、今ならはっきりと言える。息子をあの家に迎えに行ったとき、何か心に引っ掛かったのはそれだったのか。


あの破天荒な息子の元担任が妙に気に入ってしまったのは、彼女の白い頬にほんの少しではあるが、彼のひとの面影を見たからなのかもしれない。


バラバラだった過去が一気にまとまって、現在に繋がって行く。


「プッ・・・クックックッ・・・」


あまりの偶然に、堪えきれなくてつい吹き出してしまった。

遠いあの日、自分がどうしても越えられなかった壁をいとも易々と飛び越えてしまった息子・・・頼もしく成長した次男坊が妙にくすぐったくて、郷は声を上げて笑い出した。


「フハハハハ。」


「あなた、どうなさいましたの?」


笑い声に驚いた今日子が入ってきて、不思議そうに郷の顔を伺う。


「ハハハハハ・・・慎の奴・・・」


笑いながら郷は今日子を手招きする。


「ここへ来なさい。」


訳が分からないと言った態で寄ってきた妻を、郷は膝の上に乗せて抱きしめる。


「きゃ・・・////」


いきなり始まった夫の強引な口付けに、今日子は戸惑いながらも胸をときめかせた。

こんなこと、もう十年振りくらいだわ・・・今日子は甘えるように郷の背中に手を回し、ぎゅっと抱きついた。


「お前と結婚して良かった・・・」


「あなた・・・////」



久しぶりの、本当に久しぶりの妻の温もりを味わいながら、郷は黒田一家との不思議な縁を思い返していた。あの日の選択は、間違っていなかった。


そして郷は、自分の息子と彼女の娘の幸せを、

今、心から願ったのだった。



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こんにちは。双極子です。

お読みくださいましてありがとうございます。


慎ちゃんのお母さんの名前は原作には出てきませんでしたので、ドラマ版の名前を使っています。また、原作に寄ると由梨子さんと郷さんの年齢はほとんど変わらないはずですが、ここでは物語の都合上、五、六歳は離れている事にしてあります。


2010.9.23

双極子拝