吾亦紅 7
その月の残りを、どうやって過ごしたかはほとんど覚えていない。
泣いたのかどうかすら覚えていなかった。
ただひたすらベッドと机の往復をしていた。
時々電話をかけていたことを考えると、会社の方はちゃんとやっていたらしい。
勉強は、必死にこなしていたが頭にはあまり残っていない。
それでも問題集だけはきちんと進んでいて、答え合わせの結果もちゃんと良かったりするのが可笑しかった。
なにを食べていたか、なにを飲んでいたかも覚えていない。
冷蔵庫にいくらか買い置きがあったはずだが、飢え死にしていないところを見ると
少しは食べていたのだろう。それでも体重はげっそりと減っていた。
九月になると、様子がおかしいと気がついた人々がちょくちょくやってくるようになった。
最初に気がついたのはクマだった。
「慎ちゃーん・・・ドアの鍵、開きっぱなしだよ。・・・いないの?
・・・・おーい・・・わっ!」
薄暗い居間のソファで寝そべっていた俺を見てクマが奇声を上げる。
「・・・ああ、クマ・・・わりぃ、寝てた。」
「慎ちゃん、ちゃんと食べてるのかい。ほら、これ俺が作った差し入れ。」
クマは重箱にぎっしりと料理をつめて持ってきてくれた。
調理師学校を卒業したクマは、この春から神山の料亭で板前修業をしている。
小振りながらなかなかの格式で、こっそりと政治家や外国の賓客なんかもやってくる
高級店だ。
5、6年修行をしたら独り立ちして、母親とふたりで父親が昔手放した小料理屋をもう一度やりたいと、クマは毎日頑張っているらしい。
「サンキュ・・・貰うよ。」
動かない身体を無理矢理ソファから引きはがし、クマが手早く入れてくれた煎茶を飲みながら心づくしの料理に箸をつける。
「慎ちゃん・・・ヤンクミと別れたって本当なのか?」
「・・・・」
「その様子じゃあ嘘じゃなさそう。」
「・・・俺はそんなつもりはない。」
「そっか。そうだよな・・・この前ヤンクミがそんなこと言っててさ。
俺、心配になっちゃって。安心したよ。」
「久美子にいつ会ったって?」
「ああ。この前、うちの店に組長さんと一緒に来てくれたんだよ。なんだか怖そうなじいさん何人か連れてさ。奥の座敷で夕メシ食べてったんだ。ヤンクミ、帰り際に厨房に顔出してくれてさ。板長さんにわざわざ挨拶してくれたんだ。クマを頼みますって。
俺感激したなぁ。」
「そっか・・・」
俺は薄く笑うと茶を口に運んだ。久美子らしい・・・
「そんで、そのとき慎ちゃんの話したら『あいつとは別れた』とか言うからさー。慎ちゃん電話に出ないし、心配になっちゃってさ。それで俺、様子見に来てみたんだ。」
「クマ・・・ありがとな。」
「うんうん。・・・慎ちゃん、ほらこっちのしんじょも食べてみてよ。俺のオリジナルなんだ。」
「・・・旨いな・・・」
「へへっ。」
「諦めねぇから。」
「え?」
「絶対、別れてなんかやらないから。」
「うんうん。」
「ばか。なんでお前が泣くんだよ。」
「うん。」
次に来たのは京さんだった。
ドンドンドンッ
「おい、慎公っ。わっ。いきなり開けっからびびったじゃねぇか。おい、入るぜ。」
「ああ・・・」
居間にどっかりと座り込むと、京さんは持ってきたスコッチをドンとサイドテーブルに置いた。氷を出してグラスを渡すと二杯作って一つをくれる。シングルモルト、それも聞いたことのない醸造会社のものだったが、芳醇な香りが喉に爽やかだった。
「でよ。どうなってるんでぃ。」
「ま・・・喧嘩中・・・みたいな?」
「それだけなのか?」
「もうちょっと深刻かな・・・あいつ、泣いてる?」
「いや。だけど、すげー荒れてて手ぇつけらんねぇ。」
「・・・そっか・・・」
「喧嘩があると真っ先に飛んでって半殺しにしちまうしよ。すげぇ形相で歩いているから皆道を開けるしよ。おかげで白金も神山も最近は平和だぜぃ。」
くくっと笑いながら京さんが言う。
「この前なんか、白金のガキが絡まれてたってんで、十数人のチンピラ相手にしてものの半時間ほどで全員積み上げちまってよ。最近、悪さばっかりしてた若けぇグループで、組関係では手ぇ出しづらかったから助かったけどな。サツから礼状が来たぜ。」
「そりゃ、すごいな・・・」
「でよ、お前ぇ、何があったんだ。ぶっちゃけた話、どうなってるんだよ。」
俺は久美子との確執をかいつまんで話して聞かせた。
「そりゃ・・・お前もずいぶん思い切ったことを・・・」
「しょうがねぇじゃん。俺の実家は堅気なんだよ。」
「まぁなぁ・・・ま、うちとしちゃあお前ぇさんが実家と縁を切ってくれた方がありがてぇわな。」
「そ。だから久美子が怒るんだろ。」
「なるほどなぁ。お前ぇも大変だな。」
「引き換えに久美子が手に入るんだったら安いもんだ。」
「ふっ。安いとは思ってなさそうな顔だぜ。」
図星を指されて俺は京さんを睨みつけた。
「とにかく、早くお嬢を安心させてやってくれ。俺りゃお前の味方だからよ。」
「サンキュ・・・京さん。」
「お嬢も本音ではお前と別れたくねぇのよ。」
「知ってる。」
「この野郎。」
「イテテ。イテーよ、京さん。」
「ま、一日も早く仲直りしてくれよ。じゃねぇとぴりぴりしちゃってこっちの身が持たねぇよ。」
ちっとも苦にしてないような顔でそう言うと京さんは帰っていった。
荒れて暴れ回っていると言う久美子の様子が気になって、俺は様子を見に行く事にした。
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2009.8.13
双極子