吾亦紅 6



バレたのは些細なミスだった。


論文式試験の少しあと、衆議院が解散になった。

今度は政権交代か?とマスコミが騒いでいるせいで、その後しばらく海外投機筋の動きが不穏でしばらく会社から目を離す暇がなかったのだ。少し前に起こった不動産ローン問題のせいで、金融界は投機先を探しており、比較的無傷だった日本のメーカー株が格好の的となったらしかった。それでなくても世界的な株安で、ただでさえ落ち着かないところに来て投資家の一部が円買いに出た事もあって俺の会社も損を出さないでいるだけで精一杯だった。だから、衆院解散が試験が終わったあとでほっとしたものだ。

テレビで山本代議士が万歳三唱をしているのを見ながら、俺は矢継ぎ早に手を打った。

「もしもし、桃井か?」

「あ、社長。なんかやばそうですね。」

「そう。今から俺が言う銘柄を売り抜け。んでもって目一杯調達したらそれをこっちに振り向けろ。」

「・・・こんな規模で大丈夫なんですか?」

「大丈夫。頼むぞ。そっち、今誰がいる?」

「小野と秋葉、それから杉本からさっき電話があって一時間ぐらいで着くそうです。」

「三宮は?」

「あいつはつくばです。例の素子の件で。」

「そっか、俺も出来る限り急いで行くから頑張ってくれ。」

「わかりました。」

大学の近くにある会社の事務所へ着くと俺はすぐさま仕事に忙殺された。

日が経つのも気がつかないくらいで、お盆の週に入って市場が落ち着きを取り戻すまでほとんど家には帰れなかった。やっと今日になって手透きになった。

「社長、今日は帰っていいですよ。」

「そうですよ、もう三日くらい帰ってないんじゃないですか?」

「そうそう、臭いっすよ。」

「そりゃ俺らもだろ。」

「ははっ、違いないや。」

「じゃあ、そうさせてもらうかな・・・しばらく任せて大丈夫か?」

「ええ、問題ないです。」

「何かあったら携帯に頼む。」

「はい。お疲れさまでした。」

「「「「お疲れさまーっす!」」」」

家に帰って溜まった郵便物をざっと開いて確認するとテーブルに投げ出し、俺はそのままベッドに倒れ込んだ。

靴がないところをみると久美子はいないらしい。

久々の柔らかいベッドに寛いで、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。


はっと目が覚めた時はもう翌朝だった。

服を着たまま寝てしまったせいで節々が痛い。

ぼーっとしながら風呂へ行き、熱いシャワーを浴びていると段々目が覚めてきた。

それと同時に、猛烈に腹が減ってきた。

何か食べるものがあるだろうか・・・

台所へ行くと、テーブルの前に久美子が座り込んでいた。

てっきりいないものとばかり思っていたので、俺は非常に驚いた。

「久美子!いたんなら声をかけてくれればいいのに。」

冷蔵庫からとりあえずミネラルウォーターを取り出し、ラッパ飲みしながらそう声をかける。

「いやぁ、参ったよ。損が出ないようにするだけで精一杯でさ。

この一週間でベッドに入れたのは5時間くらいだよ。やっと落ち着いてね。

昨日は久々に良く寝た。ふぁあ、まだ眠いな・・・

な、久美子。今日は泊まっていけるのか?」

タオルで髪を拭きながら話しかける。

「ああ、今日お前の誕生日だから。色々買ってきた。」

こちらを見ようともせず、手元を見つめたまま久美子は動かない。

テーブルに、食料品やプレゼントらしい紙包み、ケーキの箱にワインがあった。

「誕生日?って、ああ、俺のか。すっかり忘れてたよ。サンキュ、久美子。」

近寄って後ろから抱きしめ、そっと髪を撫でるとくいと顔を持ち上げて額に唇を落とす。

そこでようやく俺は久美子の様子がなんだかおかしいのに気がついた。

「どうした?」

顔を覗き込んで言うと、やっと俺の顔を見た。

その顔には怒りと戸惑いと哀しみと、そんなものがごちゃ混ぜになって浮かんでいて

俺は少々驚いた。

「どうしたんだ!」

「お前・・・これはなんだ?」

久美子は言いながら手に持った封筒を俺の方へと差し出した。

それは投票用紙だった。

来週、投票が行われる衆議院議員選挙のものだ。

住民票をもとに本人のものとへと郵送されてくるものだ。

「これはなんだと聞いている。」

それには当然、宛名として本名が印刷されている。

「投票用紙。」

「それは見ればわかる。この宛名はなんだと聞いている。」

「・・・・」

「間違いじゃねぇんだな。」

「・・・ああ。」

「どう言うことか、説明してもらおうか。」

「見ての通り。」

「はぁ・・・はじめは間違いかと思った。

でも住所も生年月日もお前と同じだし。

で、どう言うことかと考えたんだ。」

「・・・それで?」

「お前、名前を変えたんだな。」

「ま、そんなところ。」

「改名したのか?」

「いや。養子縁組。」

「養子縁組?」

「ああ。それから分籍。」

「分籍・・・お前、戸籍を汚したのか。」

「ま、ね。」

「なってことを・・・」

「・・・・」

「はぁ・・・」

「・・・・」

「沢田の家はどうするんだ。」

「兄貴がいるし。それに俺はあの家とはもう関係がない。

調べようと思っても後も追えないくらい綺麗さっぱり縁を切ってきた。」

「なんで?」

「・・・色々と。」

「やっぱり、あたしのうちが原因なんだな。」

「・・・・」

「で、お前の実家に迷惑がかからないように。」

「・・・・」

「これで、気が済むまでうちの稼業にかかわれるってか。」

「・・・・」

「堅気の弁護士になるって言ったのに・・・結局これかよ。」

「俺はっ!」

「黙れ。」

「・・・・」

「あたしは許した覚えはないぞ。」

「・・・俺はもう成人だ。お前の生徒のガキじゃねぇ。

自活だってしている。自分のことは自分で決められる。」

「お前の親御さんに顔向けできねぇよ・・・」

「親父にはナシがついてる。これは俺の問題だ。」

「そんなわけにはいかないだろうっ?」

「お前と、お前の家族と、それから俺の家族、両方守るにはもうこれしかないんだ。」

「だからってっ!」

「もう、すべて済んでるんだ。この話はこれでおしまいだ。」

「なぜ、もっと早く相談してくれなかった。」

「・・・言えば反対するに決まってるから。」

「当たり前だっ!」

「・・・だからひとりでやった。」

「・・・てんめぇ・・・」

「報告が遅れたのは、悪かったよ。それは謝る。」

「・・・・」

「でも、やったことは謝らない。」

「・・・もう一度言ってみろ。」

「ああ、何度でも言ってやるさ。これは俺の問題だ。口を出されるいわれはないっ!」

バシッ。

本気の平手打ちが振ってきて、思わずたたらを踏む。

「ぜってぇ許さねぇからな。」

「関係ないね。」

「んだとぉ?ごるぁ!」

「関係ないって言ったんだ。これは俺の問題だ。たとえお前でも止める事は出来ないね。」

「てんめぇ・・・」

「とにかく、事はもう始まっちまったんだ。俺の意思は変わらない。俺の覚悟も変わらない。俺の人生がお前のものだと言う事実も変わらない。」

「・・・・」

近づいて行ってそっと頬に手を伸ばす。

息がかかるくらい接近して囁く。

「なぁ、俺たち、愛し合ってたよな。誰よりも深く結びついて誰よりも近くにいたよな。これは俺のお前に対する愛の表明なんだ。俺はお前の愛しい男だろ・・・その俺を信じてくんねぇの・・・?」

久美子の手が俺の襟元にかけられた。

「久美子・・・」

囁いて久美子の顎をくいっと上げ、唇をつけようとしたその瞬間。

「慎・・・」

ガゴッ。見事な左フックが俺の頬に決まった。

ドガッ。続いて鳩尾にも。

ゆっくりと床に倒れていきながら、俺は久美子の声を聞いていた。

「あたしを忘れてお前は幸福に生きろ・・・これが今生の別れだ。あばよっ、慎公。」

そう言い捨てると久美子は出て行った。


テーブルの上のケーキとワインが、こんな場面にそぐわなくて滑稽だった。


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2009.8.12

双極子