吾亦紅 5
名前をなくし、家族をなくし、過去の自分すらなくして
俺は自分を見失いそうだった。
久美子の肌身が身近になかったら、俺は正気を保てなかったと思う。
それでも穏やかに繰り返される日常の中で、おれは徐々に状況に慣れていった。
人間の適応能力はすごいものだと改めて思う。
論文式試験の日が容赦なく近づいていた。
例年よりも一週間も早く梅雨明けしたおかげで、7月半ばだと言うのにもう熱い。
俺は三年の前期の単位はほとんど取らなくてすむようカリキュラムを組み、司法試験の二次に焦点を合わせて全力を注ぎ込んでいた。会社の方も部下達に任せっきりで、ずっと家に缶詰状態だ。
お互い、忙しいためあまり顔を合わせることもないのだが、俺を心配してか、久美子は6月に入ってからほとんど家には戻らずに、うちにいてくれる。久美子は朝早く出かけて夕方帰って来るし、俺はどちらかと言えば夜型で活動は昼前から真夜中過ぎだから、一緒のベッドで寝ていても互いに寝顔だけと言う日も多い。唯一ともに過ごせる時間である夕方から夜にかけても、仕事や勉強でつぶれたりしてなかなかゆっくりする暇はとれない。しかし、話などは出来なくても、同じ家に気配があると言うだけで俺は満足していた。
久美子は終業式を目前に控え、テストの採点・成績付け・追試代わりのレポート採点と息つく間もなく仕事に追われている。悪いなぁなんて言いながら久美子は、俺のマンションの自分用の部屋に閉じこもりっきりだった。
「ちくしょー!モームすの歌詞なんかきいてねーっつの!!しかも漢字間違ってんじゃねーか!!」
時々聞こえる怒鳴り声から察するに、今のクラスの連中も俺たちとさして出来は変わらないらしい。あんな学校でも少しは受験生もいるらしくて、夏期特別補習の準備などもしているようだ。あの様子じゃあ先が思いやられるようだが。
そう言うと、
「おう、それでもお前の影響でだいぶ進学率あがったんだぞ。教頭がお前のことを随分派手に宣伝したからなー。」
だそうだ。
落ちこぼれのための教師でありたいと言っていても、その落ちこぼれ達が出来るようになっていけば嬉しいのは当たり前で、久美子はますます張り切って仕事に励んでいるようだ。その姿を見て、早く一人前になりたいと思うと同時になんとしても守らなければと強い思いも湧いてくる。
俺と久美子は、性格も生い立ちも趣味すらも何一つ共通点がないのに、不思議と一緒にいるのが苦にならなかった。久美子もそう思ってくれているのだろうか。
食事も、簡単にだがふたりで交互に作り、気がついた方が買い物をしてきたりして、
起居を共にしていると、なんだか夫婦みたいでちょっと嬉しい。
今日は久々に同じ時間に空きができた。
「おーい、慎。飯の前に風呂入るかぁ?」
「う・・ん。どうすっかな。お前、先に入ってこいよ。さっぱりするし。」
「そっか。うん、そうするな。」
「一緒に入るか?」
「ばーか////」
風呂へ行く久美子を見送ってから、その間に飯の支度でもと思って俺はキッチンへ行く。
久美子が買ってきた食材が色々あるから、取り敢えず適当に出して調理をはじめる。
そのまま没頭しているとややあって、
「あああ、あっちぃー。でもいい湯だったぁ!お前も入ってくれば?」
ばたばたと襟元を扇ぎながら、上気した顔の久美子が風呂から出てきた。
「うん、あとでいいや。」
「そか?・・・お前何やってるんだ?」
「何って・・・」
久美子の不審そうな目を見て、散らかったキッチンを眺める。
大鍋一杯でも入らないだろうと言う量の大量の野菜が刻まれて、山積みになっていた。構成を見るとスープ用らしい。下ごしらえされて小麦粉まみれの魚の切り身がたくさん、タレに漬かった牛肉に、マリネされた鶏の胸肉、かご一杯の刻みキャベツに、ボール一杯のゆでたジャガイモ、大量のくし切りトマト・・・
黒田一家総出でも食べきれないくらいの料理が途中まで作られて並んでいた。
「あれ?・・・わりぃ、ぼんやりしてた。」
久美子は眉根を寄せて俺を見ていたが、やがて何事もなかったかのようににっこり笑うと、俺を風呂へ促した。
「あとは、あたしがやっとくから。ゆっくり湯船につかってこいよ。肩まで入って100数えるんだぞー!」
「ばーか、子供扱いすんじゃねぇ。」
「ふふっ。さ、醒めないうちに早く。出たらあとで一緒にビール飲も♪」
「ああ、そうすっかな。」
湯船につかって手足をのばしながらちょっと落ち込んだ。
俺は、まだ自分のことを久美子に話せないでいる。
それが思ったよりもダメージになっているらしい。
早く話さなくては。
もう少し、あと少し経ってから。
これが終わったら・・・
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2009.8.11
双極子