吾亦紅 4
五月の短答式試験に無事合格した俺は、その喜びを味わう気にもなれぬまま、次第に余裕をなくしていった。
今の俺は「沢田慎」ではない。
玲を守るため、黒田を守るため、久美子を守るため、俺は自分自身を消し去ることに決めた。
教養部にいた、人付き合いが悪くて無口な目立たない青年は、本郷にはいない。
代わりにビビットレッドの髪をして派手で生意気な男がいる。
ほぼいつもサングラスをかけているので、ほとんど顔はわからないだろう。
もしもこれで駄目なようなら、整形手術も考えているが今のところ大丈夫なようだ。
玲の指導教官は親父の恩師でもあって、彼には事情を話して協力してもらっている。
親父も玲も、教授のお気に入りの学生だったようで、快く俺を引き受けてくれた。
彼はまた、警察業界にも法曹界にも顔が広く、温和で敵を作らない性格もあって、馬鹿にできない影響力を持っている。学問に対する真摯な姿勢と、あくまでも社会正義を貫く強靭な精神で、主義主張や立場を超えたところに大勢の友人がいた。
最初に相談した時、彼は興味深げにこういった。
「ほう・・・。して、理由は何かね?」
「恋人です。」
「ほっ。また古風だな。」
教授は好奇心に満ちたいたずら小僧のような瞳で俺を見て、ふっと笑った。
「君はお父上に似ているな。ま、若いうちは時として蛮勇も必要だ。思う通りにやって見なさい。」
「はい・・・」
教授に詳しく教えてもらった通りに、俺は春休み中にすべての手続きをした。
沢田家に俺がいた痕跡を消し去るのは難しいので、俺は出て行った足跡を慎重に消し去る事にしたのだ。
まず、沢田家の戸籍から分籍し、単独戸籍を新しく創設した。
次に、黒田の組長さんに頼み、組長さんの実家であり今はすっかり係累が絶えている稲葉家に養子に入る。俺はこの後もう一度分籍するだけでもう充分だと考えていたのだが、組長さんに山本家との養子縁組を勧められた。
「何かと便利だぜ。」
「と言いますと。」
「ふっ。これから先、お前ぇさんにとっての守り刀になるかもしれねぇってこった。」
「・・・」
「久美子の奴ぁ、跳ねっ返りでなぁ。」
「はい。よく知ってます。」
俺の正直な答えに組長さんは薄く笑った。
「堅気の仕事に就いちゃあいるが、何かと物騒なところに首を突っ込みたがる。俺の眼の黒いうちはいい。だが、その後ってぇ事になるとな・・・お前ぇさんも、堅気の仕事に就くんじゃあ心配でしょうがねぇ。」
「はい。」
話がどこへ行くのか分からなくて、ただ相づちを打つだけにした。
「京の奴も、極道の世界じゃあ鳴らしてはいても、表の世界のこたぁからっきしだ。表にも裏にも顔の効く後ろ盾を久美子にゃ残してやりたくってなぁ。」
「それが、山本さんとどう言う・・・?」
「ふっ。会えばわかるぜぃ。」
こうした経緯で、梅の香ただよう雅やかな早春の料亭の座敷でその山本氏を待った。
晴れてはいたが風は冷たく、雪見障子だけが開いた座敷から庭の紅梅が見える。
その鮮やかな紅色を見ながら、同じ色に染まった自分の髪をざっと撫で上げる。
京さんが戯れに名付けた「赤獅子」なんて異名は、名ばかりが一人歩きして実体のない薄っぺらいものだ。中学の時、初めてこの色に染めた日のように、俺はまだ虚勢を張って粋がっているだけの、ただのガキだ。
しかし、ガキにはガキなりの矜持もけじめもある。
ましてや愛するもののためならば、ささやかなりとも貫き通したい意地がある。
そんなことを考えていると、からりと襖が開かれた。
半白の頭をしたその年配の男を見て、俺は組長さんの顔の広さに改めて驚いた。
鯨岡や猿丸の事件の際、集まった極道の数をあとで親父から聞いてすごいものだと感心したものだったが、表の人脈のほうは更にすごいものらしい。
「ほう。君がそうかい。」
男は気軽に声をかけてくる。
「はい。はじめまして。稲葉慎と申します。」
座布団を降りてきちんと手をつき、礼をする。
「ああ、龍さんから君の事は聞いている。まあ楽にしてくれたまえ。」
男はゆったりと座卓にもたれると、こちらを見た。
楽にしろと言ったくせに、男の眼光は鋭いままだった。
その眼を正面から受け止めて、俺はじっと沈黙に絶えた。
座敷内の空気がピンと張りつめた。
殺気にも似た空気が流れる。
床の間の梅がふんわり香る。
と、
カ・・コン・・・
庭の鹿脅しが軽やかな音を立てた。
それを合図に男はふっと眼の光を弱め、微かに笑ったように見えた。
「君は、俺が誰だか知ってるかい。」
「はい。」
与党・自由政友党、現幹事長にして最大派閥のドン、山本正太郎その人だった。
山本家は維新の頃から続く名門の政治家一族で、山本財閥の主でもある。皇族とも縁が深いはずだ。
「君は、警察庁の沢田局長の息子さんだそうだな。」
「はい。父をご存知ですか。」
言いさして気がついた。先週の国会で親父は証人喚問されていた。そのときに代表質問に立っていたのが山本幹事長だったはずだ。
「ふっ。彼は優秀だな。」
「そのことをご存知なのは、幹事長だけですか?」
俺の殺気に気がついたのだろう。幹事長はふっと笑って
「そう睨むな。俺だけだよ。龍さんとの男の約束。破る訳がねぇ。」
少しだけ砕けた口調になったのは、昔は組長さんと同じような世界にいたからなのだろうか。
それを指摘すると、幹事長は驚いたように眼を見張り、それから笑い出した。
「はっはっはっはっ。今まで誰にもバレたこたぁねぇんだけどな。いや全く。
龍さんの言った通り、お前ぇさん、若けぇくせに面白れぇ奴だ。はっはっはっ。」
ひとしきり笑うと、幹事長はまた真剣な顔に戻った。
「それで、お前ぇさんがこんな事をしたいって言う訳を聞かしてもらおうじゃねぇか。」
「山口久美子さんです。」
即答すると幹事長は目を見張った。やがてふっと笑うと
「・・・龍さんのお孫さんだったかな?女にしとくなぁ惜しいくれぇの豪傑だって聞いてるぜ。・・・ほう、またエラく惚れ込んだもんだな。」
「彼女と引き換えなら、俺は何も惜しくありません。そのために自分を失ってもいいんです。」
俺をじっと見ていた。
「ふっ。気に入ったぜ。・・・おい。」
幹事長は卓上に整えられていた簡単な酒肴の支度を見て、杯を取る。
俺は目の前にある銚子を取ると、幹事長の杯を満たした。
くいっと鮮やかな手つきでそれを開けると、幹事長はその杯をそのまま俺に手渡した。
今度は幹事長が酒を注いでくれて、俺もすいっと飲み干した。
ちょっと喉に引っかかったが、それほどみっともなくはなかったと思う。
「いい飲みっぷりだ。」
「ありがとうございます。」
「さ、これで固めは済んだ。お前ぇさんは今日から俺の息子だぜ。」
頭を下げると、幹事長は笑ってパンパンと手を打った。
仲居が襖を開けると、皿を並べ始めた。
「あんまり時間がないんだが、まあ、喰いねぇ。若いんだから、きちっと喰わねぇとな。」
それから、色々な話をした。
幹事長は非常な博識で、あらゆることに精通しており、真剣に国を憂う、本物の「代議士」だった。マスコミに突き上げられてヘドモドしているのは、外向けの芝居らしい。少しくらい隙があった方が、敵を作らずに済むのだそうだ。
「俺ぁな。龍さんの従兄弟なのよ。」
「え?」
意外な告白に少々驚いた。係累はいないと聞いていたのに・・・
「っても義理の、だけどよ。龍さんの連れ合いの京子さんは、俺の父方の叔父の娘でよ。ま、歳は随分違うんだがな。」
「初めて伺いました。」
もし外に漏れたら大変なことになる。こんな重大なことが誰にも知られていないと言うことに、黒田龍一郎の力を改めて思い知った。
「そうだろうとも。裏の世界でも知ってる奴ぁほとんどいねぇ。叔父って言っても磯次郎さんは、俺の祖父さんが深川の芸者に生ませた子なんで血は薄いがな。」
「・・・・」
「俺も若い時ぁ、親父に反発して悪さしてたからな。叔父貴のところに出入りするうち龍さんと知り合ったのよ。」
「そう、でしたか・・・」
こうして俺は「山本慎」となり、戸籍も学籍も住民票も何もかも新たに作り直して過去と決別したのだった。