吾亦紅 2


俺は、久美子よりも6歳年下だ。

女性の初婚年齢が年々高くなって来ているとは言え、俺が一人前になって自分の給料を他人からもらえるようになるまで待たせていては、その先いろいろ困ることになる。

久美子と一生を過ごすのなら、早いうちに大人になる必要があるのだ。

大学へ入って半年ほどしてからそのことに思い至った俺は、自活の道を探り始めた。

うちの大学には、学内ベンチャーサポートプログラムと言うものがある。

学生の中から優秀なアイデアを募集し、選ばれると教授の特別指導が得られ、事業計画を元に大学が出資してベンチャー企業を起こすことが出来ると言うものだ。

三ヶ月に一度、募集があって大体3、4名が選ばれる。俺は一年生の冬、二度目に応募した際に採用され、投資ファンドの会社を立ち上げた。

同じ学内ベンチャーのなかの理系の連中の会社を積極的に後押しし、新規分野の開拓と有望株の確保に努めたおかげで、一年ほどで俺は8桁後半の資金を手に入れることが出来ていた。それを元に、事業への出資もはじめ新しい生活への基盤を徐々に築いていたところだった。大学が持っているそれ専用の建物の中に小さな事務所を構え、人も外部から五人ほど雇って、会社は順調に成長している。


「おい!」

工学部を訪ねていくつかの研究室で打ち合わせをすました俺は、目の前を華奢で化粧っけのない地味な女がうつろな目をして歩いていくのを見つけて声をかけた。ひとりでぶつぶつ言いながら手に持った紙束を睨んでいる。

「んん・・?この温度だとトンネル効果だけでしょ?どんなに多く見積もっても、」

「おい、鬼玉川。おいってば!」

「やっぱり電圧が足りないかしら。ね?」

「俺に聞くな。んな事知るか。」

「あれ?・・・そうかっ!もう一段階、いるんだわ。ほら、」

「・・・現実世界に戻って来い。」

歩きながら睨んでいたデータログの束を取り上げて声をかけると、その女、鬼玉川さゆりはやっと俺の顔を見た。

「あら、えーと・・沢田君、だっだっけ?こんにちは。いつからそこに?」

「コンニチハ。ってさっきから話してるだろ。見えてなかったのかよ。」

「そうだった?」

「はぁっ。ま、いいや。ほら、これ。この間話してたやつ。」

「何だっけ?」

「お前のアイデアで特許出したっていう新しい素子の話だよ。俺んところで事業者探して生産するかどうか検討するって言ってたろ。あれ、工学部の森本教授が乗り気でね。」

「教授が?そっかぁ・・・嬉しいな。じゃあ、あっちの素子も予算貰えるかも。

新しいのはね、リチウムの代わりにニオブを使うのがミソなの。リチウムだとどうしても中間生成物のところでロスが出ちゃうのよ。なんでかって言うとね、イオン化エネルギーが、」

「いや、その説明は俺にしてくれなくていい。」

「あら、そう?面白いのに。」

「どうする?お前が自分で会社立ち上げてもいいし、俺のところでもいいって言ってくれたけど。お前、どうしたい?」

鬼玉川は俺たちが入学した年度から新しく始まった早期終了カリキュラムを利用して三年生にして既に卒業研究をはじめている。来年度には修士課程に進むらしい。

「んー?実験が忙しいし勉強もあるから・・・あなたやっといてよ。」

「やれやれ、欲のない。んじゃ、俺の方でやっとくよ。そのかわり、俺の取り分が発生するぜ。」

「ま、適当にやっといて。」

「はいはい。」

「じゃね。・・・っとここで一気に値が飛んでるなぁ。何時だろ?んー、あっ。冷却水止まった時だ・・あちゃー、ってことは」

俺からデータの束を取り戻すとぶつぶつ言いながら、鬼玉川は行ってしまった。

男に媚を売らないタイプの地味なひっつめの彼女は、誰かを連想してなかなか好感が持てるのだが、不思議な事に鬼玉川に女を感じた事はない。それが年齢によるものなのか、それとも何か違うものがあるのか、俺はいまだにわからないでいる。

どちらかと言えば鬼玉川の方が美人だし、飾らないなりに小ぎれいにはしているし、仕草も女らしいのに、不思議なものだ。クラスの男どものなかには興味を持って近づく奴もいたが、大抵は鬼玉川に撃退されている。

一度、歯牙にもかけない理由を聞いてみたら

「あら、だって自分より頭の悪い男と付き合うなんて、時間の無駄じゃないの。それに、あたし文系の男は嫌いなのよ。」

と返ってきた。

まあ、ともかくこの素子はかなり有望な事業になりそうで、俺としても力を入れているところだ。アカデミズムの世界に憧れて、どっぷり浸っている彼女は、世俗的な金儲けなど一切興味がないようで、丸投げして疑いもしないところが、浮世離れしている。先輩研究者のひとりと外人を捕まえてマシンガンのように英語で議論しはじめた鬼玉川を、まあある意味学者向きだよな、なんて思いながら俺は見ていた。


三年生になって立場が変わった俺は、徐々に事業の手を広げ始めていた。

少しでも久美子のためになるだろうと考えて神山の商店街と歓楽街に基盤を作るため、商店会の法律相談にのったり、京さんと共に店を回り経営の助言をしたり、黒田の金融会社に出資したりしていた。

こんな事をするのも、皆、久美子のため。

いや、久美子と共に生きたいと願う自分のためだ。

だから、自分の道は間違っていない。


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2009.8.9

双極子