四月の魚 8
車が慎のマンションへ着いた。
久美子の身体を片腕で抱いたまま、うとうとしていた慎は京太郎の声で目を覚ました。
「おい、着いたぜ。」
「うー・・・、サンキュ、京さん。明日にでも挨拶に行くよ。」
「おう、いい酒用意して待ってるぜぃ。」
「組長さん、お世話になりました。」
車を降りてぺこりと頭を下げる。
「いいって事よ。お前さんにゃあ、久美子が随分世話になってるからなぁ。」
はははと笑う龍一郎を尻目に久美子も車を降り、
そのままマンション入り口まで慎と並んで歩く。
「沢田・・・」
エントランスまで来ると、久美子は立ち止まってこちらを見た慎の胸にそっと顔を寄せた。
そのまま胸にしがみついてくるから、慎は驚きつつも長い腕で久美子の身体をそっと包み頬を寄せた。
山口・・・現実だろうか。ずっと追いかけ続けた女の身体が俺の腕の中にあるなんて。
強く抱きしめたらするりと腕から抜けてしまうかもしれないから。そうっと抱きしめて。
そのまましばらく抱きしめていて、久美子が嫌がらないことに安心した慎は、自分の気持ちを改めて口にする。
「山口・・・好きだ。俺と付き合って欲しい・・・」
少しだけ腕の力を増すと久美子がびくっと身体を震わせたのがわかった。
「・・・山口?」
それまでおとなしく抱かれていた久美子は、腕を突っ張って慎の懐から逃れると俯いた。
やがて顔を上げると。
「けっ。調子こいてんじゃねぇぞ・・・」
「え・・・」
ちょうどその時、激しい驟雨が叩いて来て声がよく聞こえなくなった。
「ちょっと優しくしてやりゃあいい気になりやがって。
ホントにテメェは単純な野郎だぜ。」
「山口、何言って・・・」
「はっ。クラスのリーダー手懐けときゃこっちも楽が出来るってもんだ。
ちょいと餌ぁやっただけで、喜んで尻尾降ってよぉ。
ほいほい言うこと聞くから便利に使わせてもらったぜ。」
降りしきる雨に邪魔されて久美子の表情はよく見えない。
「お前、それマジで言ってんの?」
「テメェは、自分は特別だーっとか勘違いしてたみてぇだがな。
へっ、卒業した今となっては、もうテメェの利用価値なんざ、
これっぽっちもねえんだよ。」
「てめぇ、ふざけんなよっ。」
「うぜぇから纏わりつくんじゃねぇよ。ガキが粋がって玄人の世界に顔突っ込みやがって。坊ちゃんは坊ちゃんらしく、堅気のお嬢さんと乳繰り合ってりゃいいのさ。」
久美子の顔を降りしきる雨の雫が流れ落ちる。
雨に曇った眼鏡の向こうの瞳は、見えなかった。
「・・・それ、俺の気持ちを知ってて言ってんだよな?」
「あ?あたしに惚れてるんだったっけな、ははっ。そのおかげでこっちは色々と遣りやすかったぜ。あたしなんぞの色仕掛けに引っかかるなんざぁ、お前も大概マヌケだぜ。」
「てめぇ・・・」
「あばよ、慎公。二度とあたしの前に顔出すんじゃねぇぜ。」
そう言い置いて踵を返す久美子の腕を、慎は掴んで引き戻す。
「待てよ!俺は信じねぇぞ!・・・っ!」
先ほど治療したばかりの肩をぐいっと掴まれて、慎は思わず手を離してしまった。
その隙に久美子は車へと駆け込む。
「京さん、出しとくれ。」
早く、早く。頬を濡らすのが雨ではないと気付かれる前に。
この顔を保っていられるうちに。
「ふざけんなよっ!てめぇ!俺は絶対に認めねぇぞ!!」
慎の絶叫が響く。
「いいのかい?お嬢。」
「ああ。」
早く、早く。声を上げてしまわないうちに。
車が動き出すともう耐えきれず、久美子は突っ伏してわーっと泣き出した。
「ふざけんなっ!!俺は絶対に諦めねぇぞ!!絶対だっ!!逃がしゃしねえぞ!山口!!
俺は絶対に認めねぇ!!!」
慎の絶叫が雨音を縫って久美子を追いかけてくる。
久美子は耳を塞いで必死に聞くまいとした。
早く、早く・・・もっとスピードを上げてくれ・・・
「絶対に認めねぇぞ!!山口ぃぃ!!!俺は諦めねぇからな!!!」
土砂降りの雨の中、慎の絶叫がいつまでも響いていた。
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2009.4.10
双極子