四月の魚 4



皆の前では気丈に振る舞っているものの、内心久美子はかなり動揺していた。

まだその気持ちを受け入れることを決心してはいなくても、両思いなのだ。

慎は未だに思いが通じていないと信じているが、久美子はとっくの昔に慎に惚れていた。

自覚したのはつい最近のことなのだが、一途に真心を示してくれる慎に心を動かされたのだ。しかし、一方で自分のためなら危険も顧みずに行動して来た慎を知っているからこそ、久美子は慎を受け入れる決心がつかないのだ。

猫股のときも鯨髭のときも、一介の高校生のくせして玄人相手に一歩も引かず、ぼろぼろになるまで叩きのめされて。

今回のことも、自分のために慎が危険な目にあっている可能性を考えると、いても立ってもいられなかった。


しかも、慎は未成年。

許されないことだと批難を受けるだろう。

慎の保護者は、息子の評判を落とす障害を、何の苦もなく叩きつぶすだけの度胸も社会的地位も持っている。それに、自分のためにまた慎と親との関係が悪化するであろうことも、久美子の悩みを深くしていた。

あたしが引かなければ・・・

今なら、気持ちを受け入れていない今なら、まだ引き返せるのではないかと思う。

このまま、沢田に何も言わず、会うのをやめたら、忘れてくれるだろう・・・

そんなことを思ってみるのだが、それを実行に移すかと言うとその勇気はない。

結局のところ、久美子は慎と離れるのが寂しいのだ。

あの赤い髪や綺麗な頬、しなやかな身体のいとしい恋男をあきらめることが出来ないのだ。

更に、慎が決して自分を裏切らないであろうことも久美子はちゃんとわかっていた。

たとえ自分が突っぱねても、あいつはどこまでもついてくるだろう。

それをわかっているからこそ、離れたら、などと安心して考えていられるのだ。

「あたしはずるい・・・」

久美子はひとりつぶやいて、またため息をついた。

「沢田・・・どこに行ったんだよぉ・・・連絡ぐらいして来いってんだ・・・」



慎は目覚めた時、いつの間にか別の場所に連れてこられているのに気が付いた。

今度の部屋は、豪華なマンションの一室のようだった。

明るい青空がレースのカーテン越しに見える。

他の建物や街路樹が見えない所をみると、高層階なのだろう。

感触のよい綺麗なシーツに包まれて、大きなベッドに寝かされている。

手首は同じように前でまとめてしばられていて、長いロープで壁際に繋がれている。

更に胴回りにもう一本ロープがあり、それはベッドの両側に固定されているようだ。

起き上がる事は出来るのだが、ベッドからおりることは出来ない。

「くそ・・・」

ギシギシとロープを揺さぶっていると、物音に気が付いて男が一人入って来た。

「お、坊や、お目覚めだな。」

見張りのふたりとは違う少し年配の男だった。

何となく見覚えがあるような気がして、慎は男の顔をじっと見た。

先週、近所のスーパーで見かけたような気がする。

久美子が慎のマンションで見かけた不審な男がこの山川なのだが、慎は知る由もない。

山川は、狐目組の若頭、権田原の客分として寄宿している。

権田原とは中学以来の縁で、およそ悪いことなら何でもやってのける凶暴な男だった。

それまで慎を監禁していた狐目組のビルを出て、この部屋に移ったのは、

取引を始めるためと、もう一つ、権田原の要請があったからなのだが、

お互いの目的を敢えて話さずにいたため、のちのち齟齬が生じることになる。


その男、山川は近づいてきてベッドの端に腰を下ろすと、指で慎の頬をすうっと撫で上げた。触る、と言うのとは違う、明らかに欲情を含んだ撫で方で、慎はぞっとした。

もう一度手が降りてきたので、反射的に身を捩ってその手を避けると、山川はくしゃりと慎の髪をつかんで身を寄せると、そのまま髪に口付けた。

「何しやがる!」

しばられた腕を振り回して男の身体をどかし、慎は山川の顔に唾を吐きかけた。

「つっ・・・!」

「そのロープはね、暴れれば暴れるほど食い込むようにしてあるんだ。」

ニヤニヤ笑いながら、山川は顔に付いた唾液を指で拭い、その指をぺろりと舐めた。

「・・・何が目的だよっ。」

「ふふっ、君は皆のアイドルだよ。沢田慎君。」

「!」

誘拐者が自分の名を知っていることに慎は驚いた。

では営利誘拐なのか?ならば親父関係なのか・・・山口には関係ないのかもしれない。

そう思って慎はちょっと安心する。

ふふ、 傷だらけだねぇ。こびり付いた血が白い肌に映えて、

ぞくぞくするくらい綺麗だよ・・・」

「・・・」

「皆、君のことを欲しがってる。ボクもね・・・」

山川は、凄まじい怒りの表情で睨みつけてくる慎の後頭部をぐいっと引くと

半開きになった口にペットボトルを押し付けて中の液体を喉に流し込んだ。

ごふごふと咽せながらも、ごくりと飲み込んだ慎はすうっと意識を失った。

その身体をそっとベッドに横たえ、締まったロープを少し緩めてやると

山川は慎のシャツの裾から手を入れて素肌をまさぐった。

「ふふっ、君は本当に美味しそうだ。

この一件が終わったら、ボクが天国に連れて行ってあげるよ・・・

おっと、終わるまでは、我慢我慢。」



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2009.4.6

双極子